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ラトゥールの科学論

⚫︎私が好きになったブルーノ・ラトゥール

 板倉は『模倣の時代』上,下(仮説社,1988)を書いて,森林太郎など東大医学部の人々のエリート主義が,明治の脚気の惨事を生んだ」ことを明らかにした。しかし,山下政三は『鴎外 森林太郎と脚気紛争』(日本評論社,2008)を著し,板倉を痛烈に批判した。

 私は「脚気問題」について、科学史学会総会シンポジウム(2023.5.28早稲田大学)で発表した。そのとき、迷いに迷ったのが「板倉聖宣(1988)『模倣の時代』に対する山下政三の批判(『鴎外 森林太郎と脚気紛争』2008」であった。▶️「脚気の歴史」についての論争                

 結局、その発表では「2人の論争(山下の一方的な攻撃)」を避ける形にした。

つまり、下のように「板倉/山下」論をどちらも立てた形で発表したのである。

 しかし発表後も「板倉と山下とどちらが真実だったんだろう」と,もやもやした気分で日々を過ごしていた。そんな夏にNHKの放送があった。


⚫︎NHK.BS『フランケンシュタインの誘惑ービタミン×戦争×森鴎外』2023.8.31を見た

 NHKは、どう放送するのか。楽しみだった。

主な出演者は

佐々木 (元東京大学大学院医学系研究科社会予防疫学分野教授)66才。女子栄養大学客員教授。

仲野 (元,大阪大学大学院教授)。細菌、細胞が専門1957 (年齢 66)

         他に、岡本拓司(東京大学、科学史)

                    柴田克己(甲南女子大学教授、食品学)

⚫︎番組は「脚気の大惨事の責任は、全面的に森林太郎」と主張

 番組は、ほぼすべてが「脚気の大惨事は森林太郎の責任」だった。

岡本: 森の責任は大きいと思います。


柴田: 驕り、エリート意識、それがすべて。森林太郎が起こした悲劇だったと思います。

仲野: 森は、性格として「議論したら必ず勝つようなタイプ」一度思い込んだら抜け出せない。

佐々木: メンツが潰れる。森がいなくなるということが、ビタミンを認める唯一の方法だった。

    ただ佐々木は、1つ森を擁護している。

        陸軍は、食料を運ぶのに大八車で運ぶ。雨も降る。麦飯は腐りやすい。海軍は船だから大丈夫。

 板倉の主張が全面的に受け入れられた放送だった。「真実」とはいったい何だったんろうか。30年間で,真実は変わってしまったのか。

 そんなとき,ブルーノ・ラトュール(1947-2022 仏)の『科学が作られているとき』(産業図書1999)を知った(原著『Science in actiom』1987)。ラトュールによると,板倉に対する山下の批判は「当たり前のこと」になる。今回,それを紹介したい。

 ここからは荒金直人「ラトゥールの科学論と,物の歴史性を非還元性の原則から捉え直す」慶應大学理工学部, 研究講演記録2019.5.21https://lib-arts.hc.keio.ac.jp/research/kiban/doc/bunri20190521_2.pdfに沿って,話をすすめていく。

⚫︎板倉聖宣「脚気論」は「正しかった」のか

 右はラトゥール『科学が作られているとき』に掲げられている図である(p.21)

 これをもとに,板倉が世に問うた「脚気問題」を論じてみる。

「ヤーヌス」wikipediaより


 上の図を見てほしい。板倉は1988年に『模倣の時代』を書き,当時のエリート(森林太郎など)を批判し「模倣と創造論」を展開した。それは,いくつかの「反証/反論」を受け入れた。そして,現在は「ほぼ真実」となっているのである。

⚫︎現実の科学活動を一方的に「それは正しい」と見てはならない

「ラトゥールは次のように考える」(荒金直人[2019]より)

 科学的な仮説が人々に認められるのは「それが正しいから」ではない。その仮説があらゆる反証・反論を退けるから、それは「正しい」と見做されるのである。

 科学の歴史を語る際に、我々はあまりにも一方的に老人の視点を取ってしまっているのではないか。更には、その視点から見えてくる後付け的な科学の姿に基づいて、今まさに動いている現実の科学活動を理解しようとしてしまっているのではないか。 


   ただそんなこと言ったら「自信喪失」「懐疑主義(世の中何もわからない)」に陥るのではないか???

 

⚫︎板倉の「仮説実験的認識論」とラトゥール

(「科学の碑」より)科学,それは大いなる空想をともなう仮説とともに生まれ、

討論・実験を経て大衆のものとなって、はじめて真理となる。

 

 ラトゥールの言う「反証/反論」は,まさに板倉が言う「討論/実験」だろう。

 

⚫︎提案,『たのしい授業』大改革」などの報告を

       「討論」の形で掲載できないか?

 すべての事項が「ラトゥール科学論」で論じることができる気がしてならない。たとえば「『たのしい授業』大改革」問題も,多久和さんがまとめられるだろうが,あえて「仮説/討論」の形にできないか。

つまり「ヤヌスの青年の顔で見る」ということだ。

 

⚫︎F=maは「作られつつある科学」と言えるのか

 上の図を見てほしい。「反証/反論」を繰り返すと「網」のようになるのだ。

 さらにそれは「ブラックボックス化」する。

「1+1=2」はもちろん「大学入試」に出る数学,理科なども「ブラックボックス化」した事実と言っていいだろう。

 さらに,技術などでも「ブラックボックス化」する。電子レンジは,内部はどうなっているかわからなくても,便利に使える。

⚫︎数学は「作られつつある科学」と言えるか

 NHK総合「笑わない数学」で「1+2+3+4....= ー1/12」

という番組がある(2023.11.29)。「無限級数」には有限化する方法があるというのだ。

 これは真実だろうか。

私はこれも「作られつつある科学」だと思う。

もし「1+2+3+4....= ー1/12」が,科学技術で使われて,1つの問題を解く鍵になれば「作られた科学」になる。数学者が取り組んでいる「数学」はみんな「作られつつある科学」ではないだろうか。

⚫︎新型コロナのワクチン,カリコさんのノーベル賞は

「新型コロナワクチン」ノーベル賞

ある友人は「早すぎるのでは」と。ネットには批判する記事も出ている。

 が,それは「老人の視点」ではないか。ダーウインの進化論でも,100年たった今でも「認めない」というアメリカ人がたくさんいる。いつまで待てば「100%真実」

になるのだろうか。

「若者」の視点が必要なのでは。


⚫︎『ものとその所有 ー近代を開いた思想ー』作成開始,芽が出た


 やっと芽が出てきた。今は「反証/反論」が怖い。もう少ししたら,時間をとって発表する。少し待ってほしい。