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「脚気の歴史」についての論争

●そろそろ日本国民全体に板倉哲学を広げてもいいのでは

 板倉聖宣さんは、2018年2月に亡くなりました。その1年か2年前、病床に伏せっていた板倉さんをお見舞いしました。もうしゃべれなくなっていました。私はこう伝えました。

先生の最大の業績は、仮説実験的認識論、それは全世界に広がりつつあります。

 すると、板倉さんは、私の手をぎゅっと握りしめて15分間、話しませんでした(次の見舞い客が来るまで)。➡️原文

 

 私が伝えた言葉は「誇張」のつもりはありません。そう思っているのです。でも、世の中のほとんどの人は、そう思っていないでしょう。

 そこで、2023年5月28日にある科学史学会年会(早稲田大学)の「シンポジウム」で、発表をすることにしました(多久和さんなど「新哲学の会」の皆さんにお世話になりました)。その後、『科学史研究』という雑誌で、論文も掲載でき、全国の人々が読める形になるはずです。

●リハーサルで、問題が浮上する

 下は、当日発表で使うプレゼンの1枚です。ある人が

「この話は気をつけた方がいい」「板倉さんの『模倣の時代』に対して、抵抗がある人が科学史学会にかなりいる」とYさんが教えてくれました。このスライドのどこが問題だったのでしょう。

それは「2当時の森林太郎などの」というところです。どうしてそこがひっかかるのでしょう。

 右の文献リストを見てください。

1板倉『模倣の時代』の前に文献あり。

2板倉以後、多くの関連本が出ている。

 山下政三(1927-)は、東大病院で内科の臨床医だった人です。板倉さんの本が出たとき「怒った」という話を聞いています。「〈脚気の歴史〉は私のライフワークだったのに」と。

 ●主な〈脚気の歴史〉に関する書籍●

1983...山下政三/脚気の歴史 1983 1988 1995

板倉(1988.3.25)『模倣の時代』上・下

松田誠(1990)『高木兼寛伝 脚気をなくした男』

吉村昭(1991) 『白い航跡(高木兼寛)

山下(2008)『鴎外森林太郎と脚気紛争』日本評論社

松田誠(2007)『高木兼寛の医学ー慈恵会医科大の源流』

志田信男(2009)『鴎外は何故袴をはいて死んだのか』

森千里(2013)『鷗外と脚気 曾祖父の足あとを訪ねて』


 板倉は山下の『脚気の歴史』1983は、著書に引用しています。しかし4つの論文の存在を知らなかったので「『模倣の時代』あとがきの追加と追加」1988.4.1という文章を、著書が出てすぐに書いています。そこでは「山下政三さんのプライオリティーを尊重しえなかった」と謝罪し、「私は1日も早く、山下さんがその前著の続編を著されることを期待しています」と書いています。

 山下の次の著書(2008)は、ある意味で「その期待に応えた形」になっています。

●山下政三(2008)『鴎外、森林太郎と脚気紛争』は激しい

 山下(2008)は「あとがき」で、板倉(1988)以後、いくつかの本が「鴎外を批判している」ことを次のように憂いています。

「あとがき」

 弱年のころ鴎外の名作を読んで感動していたが、森林太郎自身に関心をもつことはなかった。また『脚気の歴史』を書いているなかで軍医・森林太郎の一端を知ったが、とくに執着を覚えることもなかった。本来なら森林太郎に関わるはずはなかったのである。

 それがーーー。1992年の10月末、島薗順雄先生(ビタミン学と栄養学の権威、東京大学名誉教授)からお電話があり、「森鴎外が脚気問題でたいへん誤解されている。正しい事実をぜひ書いてもらいたい」と要請されたのである。当時、『脚気の歴史』の執筆に追われていたので、のちほどくわしく訳をお聞きしようと後まわしにしていた。ところが、それから1か月ほどして島薗先生は突然逝去されたのである。以後、先生の言葉が遺命のごとく感じられるようになった。 (p.471)

 さらに、直接、板倉を直接、非難する文章もありました。

 

 板倉聖宣の『模倣の時代』(仮説社、1988年)は、医学を知らない門外の素人が医学の脚気問題を論じている異様な書であるが(そのため各所に驚くほど多く、医学的な錯誤や誤解が見られる)、臨時脚気病調査会についても同様、いくつかの業績を断片的に取りあげ、偏見としか言いようのない意見を述べている。 

 例えば、『臨時脚気病調査会はその解散に当たっても、ついに脚気の病理を確定することができなかった』とか、『森鴎外は最後まで臨時脚気病調査会に臨時委員として残っていた。かれは、その調査会が不用意に脚気の部分的栄養障害説=ビタミンB欠乏症説を認めるのを牽制していたのかもしれない。臨時脚気病調査会はかれの期待を裏切らなかった』とか、『臨時脚気病調査会は、大正1311月の解散の日まで、ついに脚気のビタミンB欠乏症説を公認することがなかった』という調子である。

 臨時脚気病調査会が、いかにも無能であり、無用の長物であったかのような含みである。臨時脚気病調査会の研究報告を正確に読み、脚気医学に照らして精密に業績を検討したならば、そのような事実無根の非常識な暴論は出るはずはないのだがー。それとも森鴎外に対して、あるいは臨時脚気病調査会に対して、はなから中傷する肚でもあったのだろうか? 

 いずれにせよ、臨時脚気病調査会の業績を正しく詳しく紹介することが何より必要である、と痛感させられるのである。pp.430-431.

 

 終わりに、森林太郎の医学功績の中で特に賞賛すべき功績をあげるとー。

 

1. 陸軍兵食試験 

 ドイツ留学から帰ってきた森が、留学のうんちくをかたむけて実行した試験で、当時の栄養学の最尖端に位置するすばらしい試験であった。学術的な価値のきわめて高い卓越した内容であった。若き日の森の、代表的な医学業績と位置づけ称賛すべきものである。

 

2. 臨時脚気病調査会の創立と脚気の原因究明

 明治時代「国民病」と名付けられるほど猖獗(しょうけつ)した悪病=脚気の原因究明は、明治医会あげての悲劇であった。とりわけ脚気の惨害に苦しめられた陸軍では、脚気の予防策は最緊急・最重要の課題であった。

 森の創設した臨時脚気病調査会が、脚気の原因はビタミンBの欠乏であること、脚気はビタミンBによって防止できることを解明したのは、救世主的な医学功績と賞賛すべきものである。森が国家機関としての臨時脚気病調査会を設立しなかったら(個人レベルのささやかな研究進行では)、脚気の原因解明は容易に達成できなかったはずだからである。

 森林太郎には多くの医学業績があるが、この二大業績はとくに学術的に卓越した功績として、末永く顕彰記念すべきものなのである。pp.432-433

 

●山下は、どこが「誤解されている」と言っているのか

 山下さんは、科学史学会の会員でもあり、身近な学生たちには「板倉の著書には間違いが多いから、読むな」さえ話していると、伝え聞きました。どこが問題だったのでしょう。それは2つです。「森林太郎と高木兼寛の正しい評価」pp.454-461から概述します。

 1 「陸軍の食糧」について、日清戦争、日露戦争時、森には権限がなかった(悪いのは石黒忠悳だ)

 2  「森林太郎と高木兼寛の脚気業績は、医学史上不滅の業績である」

  高木→ビタミンの先駆者 森→臨時脚気病調査会を創設し、脚気根絶に道を拓いた

下のグラフを見てください。(これは脚気死亡者数ですが、軍隊での数は入っていません)

 山下の主張は「脚気の撲滅は、1908年(調査会設立)以降が重要なのだ」です。「それを成し遂げたのは森林太郎が会を設立し、その会が多くの仕事をしたからだ」というのです。

 

●岡本拓司「明治の脚気 科学技術がもたらした危機」があった

 岡本拓司(1967- ,東京大学教授,科学史科学哲学研究室)には、次の論文があります。「明治の脚気 科学技術がもたらした危機(連載,科学と社会,第10回、国家・学問・戦争の諸相)『数理科学』サイエンス社、2013.2月より

 

 以上の経緯からは、科学者にあるまじき態度をとったとして、頑迷な森や青山を非難の対象とするのが適当であるように、一応は思われる。しかし、優秀な科学者は、通常、目新しい事実に出会っても、それをすぐに新発見とは解さず、正統的な 学説の範囲内で解釈しようとする。 眼前の情報で新理論を構築するのは無謀な初学者である。森や青山の批判の厳しさは、学問の規範から外れる言動を許さない姿勢の反映でもある。主流の学説を十分理解した上で、新情報から新説を築き、旧説を覆す科学者もいる。科学の歴史ではこうした英雄が好んで取り上げられる。しかし、高木や鈴木のような科学者は少なく、勇敢な彼 らが最後に勝利を得るとしても、それまでは多くの人々が旧説に従う。そして、脚気の歴史は、科学者が旧説に従ったまま新たな状況に対処すると、災厄が生ずる場合があることを示している。 脚気もビタミン学説が解決したように、どのような危険もいずれは科学が無害化するのかもしれ ない。しかし、限りある寿命しか与えられていい人間には、そうした解決を悠長に待つことはできない

 では人々は、科学の特性がもたらすこうした災厄にどう対処したか大多数の人々は科学のもたらす災厄に対して無力である。 しかし、明治天皇や寺内、或いはオリザニンで脚気を治そうとした町の人々などは自衛に成功した。 彼らは、主流派の医師の主張に、反駁よりも無視によって応じ、当時の医学からみれば正統的ではない方法を採用した。さらに、明治天皇や寺内は、自身の地位や職務に由来する権力を用いて、主流派医師に抗した。科学的な論争が外部の権力の影響を受けるのは好ましくないかもしれないが、現実にはありうる事態である、専門家がどのような議論を展開しようと、特に生命や健康の危険については、 非専門家は利用できるあらゆる資源や力を用いてこれを避けようとする。彼らには科学の枠内で問題を解決する義務はない。その姿勢は非科学的かもしれないが、 非専門家がそうした評価を苦にするであろうか。

 科学は危険を招くことがある、科学者はこれを科学内の論争で解決しようとする。しかし、論争の中で解決がつかない場合、あるいはつきそうな場合でも、危険に曝される遥かに多くの人々は、その論争の外にある力や資源で危険から逃れようとすることがある。 脚気の歴史は、少数の専門化集団の決定がその他の多くの人々に大きな影響を及ぼすような社会では、このような構図で危機の回避が試みられる場合があることを示唆している。