7月1日 論敵がいない、自分で作れ

竹内三郎「論敵がいない議論はお説教」『負けてうれしいカレンダー』仮説社2022

 だれも反対しない意見はすばらしいかというと「とてもつまらない」ことの方が多いはずです。

 選択肢、それはつまり異論であり、論敵の見本です。それもたくさん出ればいいということでなく、自分の頭で異論が理解できる3〜5種類の異論がでると、議論がしやすくなります。自分が自分の論敵になれたら、会議よりも先に自分の頭を活性化できます。「考える」とはそういうことでしょう。

 

7月2日 なにをするにも仮説実験

板倉山田正男編「ガリ本図書館」9号『たのしい授業』1987.9月号仮説社⚫︎

 『模倣の時代』を書きます。今度は「固有名詞の歴史」です。やったら〈優等生と劣等生との関係〉

とか、要するに「創造性」とか「実験」とか「仮説」とかいうものが全部出てきてします。俺の仕事が全部そこで総決算されている感じになる。

7月3日 七味とうがらしの日

板倉山田正男編「ガリ本図書館」9号『たのしい授業』1987.9月号仮説社⚫︎

 『模倣の時代』を書きます。今度は「固有名詞の歴史」です。やったら〈優等生と劣等生との関係〉

とか、要するに「創造性」とか「実験」とか「仮説」とかいうものが全部出てきてします。俺の仕事が全部そこで総決算されている感じになる。

7月4日、アメリカ独立記念日

 フランクリン(1705-1790)の言葉(ヴェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚訳、岩波新書 1989

1 時間は貨幣だ。   2   信用は貨幣だ。   3   貨幣は繁殖し子を生むものだ。

4  支払いのよい者は他人の財布にも力を持つ。

5  信用に影響を及ぼすことは、どんな些細なおこないでも注意しなければいけない。

 

●7月4日 なんて幸せ、真理をつかんで、ゆったりと

 1991年1月14日 北海道仮説実験授業体験講座(札幌)講演 ガリ本図書館発行『月刊選択肢Ⅲ No.4)

 

 人間っていうのは「真理」ー「最も基本的な真理」がわからないために変なところでケンカしちゃうことがあります。そうならないために真理を教える

 「真理」というものは全ての人が認めるものです。声高に言わなくても納得できるのが「真理」なんです。ですから,「真理」を獲得した人はゆっくり相手を説得したらいいんです。

  ところが「正義」の場合,相手に圧力をかけて威かしたりすかしたりしなければならない。私は「仮説実験授業は楽しい」というのは真理だと思っていますが,まだまだみんなが真理だと思っていません。ですから,ある人から言えば正義なんです。

 私は真理だと思っているから声高に主張しなくてもいいと思っているんです。ところが自分では「真理だ」と思って,しかも孤立感が激しいとやたらに声高にヒステリックに主張することになります」

 

(コメント:水口)

 ある学校で仮説関係の先生が授業書を研究授業でやったら,このテーマは本校の研究テーマと合わないので研修主任からクレームが来たということです。その仮説関係の先生は,予定通り仮説の授業書をやって、反省会で仮説実験授業のすばらしさを参加者に向かって声高に演説したけれども,参加者の反応は冷ややかなものだったということです。

 井藤さんが紹介してくれたU先生のやり方をまねるのが得策ではないかと思います。

(コメント:井藤)

 テレビドラマ『メンタル強め美女白川さん』は生き方が学べます。その「第9話」に「忍法! 自我消滅!」が出てきます。

 板倉さんの言う「真理」は感情=自我を伴いません。私は「忍法! 自我消滅!」と唱えて「真理」をゲットしたいです。

https://plus.paravi.jp/entertainment/011856.html

 

●7月5日 入院して「生死」の問題を、初めて知った。

『いたずら博士の平和な未来を切り開く 地球のみなさんへの贈り物』多久和俊明編,アトム出版2017)

(2016年の板倉さんの言葉)

 ボクは入退院を繰り返したりして,きわめて「生と死という問題」も考え直して,「面白いな」と気がついたからね。オレは「生」とか「死」ということについては,ほとんど知らなかった

「生と死は,ウソで固めて世の中が出来ている」ということもわかった。そういうことは原子論の問題ともつながりがある。

(一言:水口)

  「生と死のウソで固めたもの」とは「間違った知識」のこと?

 新作のガリ本がこのウソを暴き出す知識を提供してくれるといいです。「原子論ともつながりがある」とは?聞きたいのに板倉さんはいません。

 [板倉聖宣, 略年表]

2003年(73才) 身体異常で脳梗塞MRI検査、休息

2007年(77才) 2月脳梗塞の発作、1か月入院

2015年(85才) 2,3,5,7月「フリーメイソンの科学者たち」

  8月, 10月, 12月入院 ,11月板倉研府中に,仮説社巣鴨に

2016年(86才) 2,7月入院、会話できなくなる。10介護付老人ホームに

2018年(88才) 2月7日、死去

 

(一言:井藤)

  2016年とは、板倉さんが全く, 会話ができなくなる直前だと思います。だれもが1回しか経験しない「死」を、板倉さんでも「知らなかった」と。

●7月6日 仲が睦ましい日 山田編「ガリ本図書館」10号、『たのしい授業』1987.10月号

(山田)ガリ本に入れば、残りますよね。

 そういうことは組織論的にいって、なかなかできないんだ。上と下の関係で、気をつかう。同年配ならライバルになる。評価するからできるわけで、他人じゃなければ作れないものがたくさんある。他人がやれば「選ぶ」でしょ。自分で選べないものがある。

(ひとこと)この本もそうですが、研究会は「(ふつうの)著作権を無視することで成り立っている」と思います。それが家族のようで、仲良しの秘訣かも。

7月7日 七夕 板倉さんの入院77才 入院して「生死」の問題を、初めて知った。

『いたずら博士の平和な未来を切り開く 地球のみなさんへの贈り物』多久和俊明編,アトム出版2017)

(2016年の板倉さんの言葉)

 ボクは入退院を繰り返したりして,きわめて「生と死という問題」も考え直して,「面白いな」と気がついたからね。オレは「生」とか「死」ということについては,ほとんど知らなかった

「生と死は,ウソで固めて世の中が出来ている」ということもわかった。そういうことは原子論の問題ともつながりがある。

(一言:水口)

  「生と死のウソで固めたもの」とは「間違った知識」のこと?

 新作のガリ本がこのウソを暴き出す知識を提供してくれるといいです。「原子論ともつながりがある」とは?聞きたいのに板倉さんはいません。

 [板倉聖宣, 略年表]

2003年(73才) 身体異常で脳梗塞MRI検査、休息

2007年(77才) 2月脳梗塞の発作、1か月入院

2015年(85才) 2,3,5,7月「フリーメイソンの科学者たち」

  8月, 10月, 12月入院 ,11月板倉研府中に,仮説社巣鴨に

2016年(86才) 2,7月入院、会話できなくなる。10介護付老人ホームに

2018年(88才) 2月7日、死去

 

(一言:井藤)

  2016年とは、板倉さんが全く, 会話ができなくなる直前だと思います。だれもが1回しか経験しない「死」を、板倉さんでも「知らなかった」と。

 

7月8日 七転八倒「若者の日」

 竹内三郎『負けてうれしいカレンダー』仮説社2022.12

 七転八倒する若者たちのための日。「若いうちは苦労は買ってでもしろ」というコトワザがありますが、この日くらいはのんびり休んでください。

●7月9日「その道の専門家」には授業書はできない

「教育の研究を専門家の手から取り戻す試み」『たのしい授業』92年4月号(2022年7月号に再録)

 

 仮説実験授業やたのしい授業の新しい教材,授業書を開発するには,それらの教材内容の専門家はあまり必要としないのです。 

 じつは私だって,はじめのうちは,「各分野の専門家たちが協力してくれれば,多方面の授業書が早く作成できるようになるに違いない」と考えていました。そして,そういう専門家の出現を心待ちにしたこともありました。しかし,そういう専門家はほとんど現れませんでした。

 いや,今から思うと「自分の専門知識を活かして新しい授業書教材を作ることができるような専門家」というのは,もともとほとんど存在していなかったのです。それほどまでに,仮説実験授業やたのしい授業の考え方というのは革命的であったのです。

 新しい教育内容をつくり出すには,既成の学問の専門知識よりも,仮説実験授業やたのしい授業の認識論や思想の方が必要だったのです。

 

(ひとこと:井藤)

 私は、愛知県立芸術大学で「教職(先生になるため)」の授業をしています。最初に言うことは「芸術としての音楽,美術と、教育のための音楽,美術とは違う」「[音楽,美術の専門家だから教師ができる]と思ってはいけない」です。板倉さんの話は、まさにそれです。

 私にはずっと気になっていることがあります。それは「授業書の著作権のことです。「授業書の著作権は研究会にある」というのは可能なのか。法人でない研究会に、著作権料を払うことはふつうできません。

   「Ⓒ仮説実験授業研究会」

 この話を読んで「そうだったのか」と思いました。板倉さんは

仮説実験授業の授業書作成運動をしようとした」のです。

 それが無理だったことが、1992年の講演で語られています。

    どうすればいいのでしょう。

 板倉さんが作った授業書の著作権は「板倉聖宣」にする。それ以外は、それぞれ個人の著作権にする。

さらに「授業書という形でなく[著作=本]にする

 いかがでしょう。ひそかにそう思っています。ひそかに私自身はそのように実行しています。

 

7月10日 ヒューマニズムだけが正義(ヒ(7)ト(10)ラーの日)

 板倉2006.1.13 「ヒトラーと民主主義」舘光一編『板倉聖宣と発想法講座』 

 民族主義や国家主義は正義ではない。ヒューマニズムだけが正義なんだ。そう言わなければダメなんです。 ヒュー マニズムなら地球全体に通用する。これが正義だと。このことをはっきり決めないと先に進めない。

(ひとこと)ごみの集積所で、出し方が悪い人がいて、いつもカラスに狙われてしまいます。注意の看板を掲げようか。でも「その正義は正しくない」気がして、次回からゴム手袋をして自分でごみ袋の手直しをすることにしました。この言葉は奥が深いなあ。

7月13日 ナイスの日 結果主義で自己批判

 板倉談、山田編「ガリ本図書館」20号、『たのしい授業』1988.9月号

 ぼくの教育論は〈結果に対して責任が持てるように勉強しましょう〉〈勉強しないやつは悪いやつだ。いくら動機が良くてもダメだ〉ということです。動機主義者は結果で判断しないから、いつまでたっても自己批判できない。自己批判は他人のためにするのではない。いつも自分に返ってくる。

(ひとこと)そういえば、授業評価も自己批判かも。

7月14日 パリ祭(フランス革命記念日)

 板倉「キリン館30周年おめでとう」2011.8月

 「多くの革命はあせるから悲惨なものになるのだ」と思います。本当に大きな改革は、そんなに短期間には実現できないのだと思います。科学はその教育をゆっくり推し進めてきて、ついには大きな改革となって現れるのだと思えてなりません。

 短期にやらないと「革命」にはならない? そうその通り、革命とはいえない大きな改革は長く未来のものであり続けるのです。

 

フランス「人権宣言」より、(1789年8月26日)

 人は、自由かつ諸権利において平等なものとして生まれ、そして生存する。「人の自然かつ消滅しえない諸権利とは「自由」「所有権」「安全」および「圧政に対する抵抗」である。

 

●7月15日、最後の奴隷制としての多数決原理

   ●民主主義について考えなおす、『たのしい授業』1987.4月号

 

 広義では「(奴隷とは)自分自身の意志に反したことを強制的にやらせられる人間のこと」ということができるでしょう。

 いわゆる民主主義が確立した国や社会でも、狭義の奴隷が存在することがあります。民主主義的な多数決で奴隷制度を維持することがあるからです。実際にそういう社会はいくらでもあります。この例を見ても「民主主義的な多数決原理というのは必ずしもいいものではない」ことは明らかです。

 それではどうしたらよいのでしょうか。じつはそのことは昔から問題になっていたのです。そして、そのことを憂えた思想家たちは、昔から民主主義的な原理に優先するものとして〈基本的人権〉という概念を産み出したのです。

 結論的に言えば、私は〈多数決というのは、もともと少数派を奴隷的な状態に置く決議法である〉という理解のもとに、〈できるだけ決議しないということが大切だ〉と考えています。〈決議をするときは、少数派を奴隷にしなければならないほどに切実なことだけ決議しろ〉というのです。

 

7月16日、海の日(勝海舟の日)第3月曜日

 板倉、山田編「アリがタイなら倉庫」146『たのしい授業』2005.4月

 ぼくはある時、すごく偉大な発見をしました。「私のやる気を出させるための法則」を発見した。強制的なことは一切やらない。どうしたらいいか。ボクは勉強は嫌いじゃない。だけど、試験勉強はイヤ。「この範囲を勉強しろ」というのがイヤ。それで超優等生的勉強法を開発した。試験範囲が「1~35ページまで」なら、36ページから勉強する。

 勝海舟の研究でも,原稿に直接は関係ない竹川竹斉の伝記を本格的に勉強して,すごい発見があった。その蓄積は、使わないにしても、どこかに表れる。あらゆる運動で大事なのは「時間をかけなければダメなんだ」ということです。

(ひとこと)

勝海舟(1823-1899)の言葉「大事をなすには寿命が長くなくてはいけないよ」海舟より長生きをして大事をなそう。

 

7月17日、いいかげん教育学

 1989年8月28日の日本教育学会での講演,『たのしい授業』1989年10月号の「ガリ本図書館」34号

 

 教育内容もたとえば日本の中学・高校のほとんど全部が英語でしょ。タテマエとしては英語でなくともいいことになっている。なんで,こんなことになっちゃうのか?それは明治初めの東大法学部・文学部・理学部が英語になったためです。韓国語中国語をやる子どもをどうして作らないのか?「全部が同じように出世するチャンスを与えましょう」というのが単線系ですが,それは進歩的なスローガンですか?つまり,人間的に開花する教育を与えるのであって「韓国語でいきましょう,中国語でいきましょう,フィリピン語でいきましょう」という子どもが居てもいいじゃないか。......

 つまり,模倣の時代は「いいもの」が決まっているのですから,これはいいかげんじゃないです。しかし,一番先に行ったら,どっちに行ったらいいのかわからないんだから「いいかげん」でなければならない。その論理の時代なんだから,いいかげん教育学をやっていただきたい。

 

 

(ひとこと:水口)

 「単線系」ではなくて学習指導要領に縛られない「仮説実験系」というコースの学校があってもいいと思います。

(ひとこと:井藤)

 「いいかげん」とは英語で「フレキシブル」かな「イージーゴーイング」かな。ともかく、選択肢が3つあるということ。シルバー世代になって、日々、3つの選択肢の中で生きています。

 

7月18日  (ないといや)お金な日 他人の笑顔が描けるとお金を使う

 板倉、山田編「アリがタイなら倉庫」134『たのしい授業』2004.4月

 仮説実験授業研究会の人たちから「他人の笑顔はすごく大きいことだなー」ということを学びました。授業記録を書いたりして、子どもたちが喜んでいる姿を生き生きと描ける人ほどお金を使っちゃう。「教育の研究集会における本の売り上げに関するイタクラの法則」というのがあるでしょ。これから日本は芸術と科学と教育に力を入れれば,経済が十分発展する。私はそう思います。

7月21日 (なんでもふつうのひ) 私の研究は、仕事の9割が「模倣の仕事」である

板倉2000.8.6楽しい授業体験・入門講座、丸屋編『創造の時代に生きる教師の役割』

 創造的な仕事とは「何から何まで創造しなければいけないということではない」ということです。

「食事は何を食べるべきか」とかい うことまで,あらゆることを個性的に創造的に考えようとすると,人 間はそのうちくたびれてしまう。

 だから,私たちは生きていくために,それこそ『水戸黄門』のドラマのように、毎日の大部分がきまりきったことで進んでいけばいい。そういう〈安心して生きる〉ということをこえて〈独創的に生きる〉なんて考えることは,間違いです。 

 私たちが〈独創的に生きる〉というのは,「ここは,ほんの少し変えなくちやいけない」という場面にぶつかった時に〈そこまで古いものにしがみつかなくてもいい〉ということです。〈大部分は同じ〉でいい。私だって,研究の仕事の9割以上は〈模倣の仕事〉です。 

(荒木)

〈安心して生きる〉というところに注目したいと思って、送信します。 気分的安心ばかりを追求していて、独創的生活をしていないアラキより。 

7月22日 円周率の日 分数の7/22がわりと近い、アルキメデスがそう言ったらしい

  板倉「2種類あった江戸時代の円周率」『楽しい授業』2009.10月号

「円周率は3.14だ」ということは、今では小学生も知っています。ところが、江戸時代の大部分の人々は円周率を3.16と思っていました。数学好きの人々の中には「本当の円周率の値は√10(3.16..)だ」と考えた人がいたのはたしかです。

 日本の円周率は、明治維新以後、古代ギリシアの科学の伝統をついだ西洋の数学を全面的に受け入れるようになってはじめて「誰にでも納得のいくもの」になったのです。

7月23日 ルネッサンスディ(オマーンではそう呼ばれる)

 板倉2012.1.3冬の大会講演「ゆいごん」1授業書を作る

「ゆいごん」の話というのは、 仮説実験授業研究会の中で 「〈学ぶに値いすることは何か〉を見つけて、それを教える」 ということです。学ぶに値いすることは何か。そういう研究はすごく遅れている。本当に学ぶことは何か。それを発見して、その教え方を開発する。おそらくそういうことができる学校は、ルネサンス高校だけです。研究会会員で、そういう学ぶに値いすることを探して教育をしてほしい。 

7月24日 なによ、板倉さんの「ゆいごん」2は、

 板倉2012.1.3冬の大会講演「ゆいごん」2  仮説実験的認識論を広めてほしい

 私の研究は〈仮説実験的認識論〉が中心です。それと同時に〈日本人の今後の問題〉を考えている。 そういうことで、仮説実験授業研究会のためであり、いや日本の教育、世界の教育のために仕事をしたい。教育というのは、いちばん〈未来の社会〉につながる、本当はね。今の日本の教育は、そんなことを設定している人はほとんどいない。 私は「ゆいごん」と言いましたが、死ぬつもりはありません。細々と生きています。お願いします。私を喜ばせて下さい。

7月24日、授業書を配る理由

 198753日「中国仮説研究会」(岡山)講演、『たのしく教師 特集 遊ぶように仮説実験授業』ガリ本図書館 2007年発行収録     [水口です。授業書を配る理由はこれだっんですね。始めて知りました]

 私は初めから,「仮説実験授業は優秀な先生だけがやるのではない。日本国中で普通の先生が超過勤務をしなくても,すごく犠牲的精神を払わなくてもできるようにしなければいけない」と思っていました。だから,私は過大な要求は一切しないという方針をとったんです。

 しかし,他の民間教育団体の人たちと比べても,仮説実験授業に関わる人たちが一番超過勤務をやっています()。建前的には「授業書をそのままやればできる」のですが,実際は楽しくなっちゃって一生懸命やってくださる。

wikipedia「授業書」より https://ja.wikipedia.org/wiki/授業書

 

 

 私は初めから,「仮説実験授業は優秀な先生だけがやるのではない。日本国中で普通の先生が超過勤務をしなくても,すごく犠牲的精神を払わなくてもできるようにしなければいけない」と思っていました。だから,私は過大な要求は一切しないという方針をとったんです。

 しかし,他の民間教育団体の人たちと比べても,仮説実験授業に関わる人たちが一番超過勤務をやっています()。建前的には「授業書をそのままやればできる」のですが,実際は楽しくなっちゃって一生懸命やってくださる。

 しかし,〈一生懸命やってくださる方を基準にして物を考えない〉というのが私の立場なんです。だから,「もっと努力するといい授業ができますよ」という意見には,私はあまり賛成しない。それは,私の立場を放棄したことになるからです。

 ただ,「この授業書をやるのは私の責任でやるんだ」という責任は持ってもらわないと困ります。しかしその上で「やろうとして問題文を読んだら誤解しちゃった」というのなら,誤解した方がいけないことがたまにはありますが,誤解されるような文章を書いた私がいけないのです。

 だから私は,授業書を作っているとき一番初めは「子どもが誤解しないか」ということを考えました。でも,途中からすぐに「先生が誤解しないように」と。一番誤解するのは先生なんです()。そして,先生が誤解することが多いから「授業書を配る」というのです。

 何のために授業書を配るのかというと,書くためでもありますが,それより子どもが先生を監督するためです()。先生が誤解したら,「先生違うよ、こう書いてあるよ」「おかしいんじゃないの?先生の言っていることはなんか間違っているんじゃないの」と子どもが言ってくれる。すると,誤解の余地は少なくなりますよね。私は子どもたちを味方にして,先生が誤解しないように授業書を作っているんです。 

 一番いい授業書,素晴らしい授業書をつくるというとき,〈最も優秀な先生がやったらいい授業結果が出るような授業書を作る〉ということは考えません。そういうことを私は目指さない。私は,普通の先生が普通にやって,まあまあ間違わずに授業ができるような授業書をつくる。1割や2割間違えても大丈夫という授業書を作ることを目指しています

 

[ひとこと:井藤]

 「教師=ブラック職場」はなぜ?

 「学校が崩れる」『週刊東洋経済』2022.7.23号で、寺脇研さん(元文部官僚,元広島県教育委員会委員長)はこう主張しています。

●教員をふつうの勤め人と同等に扱おうとする風潮」から、企業と同じように成果を求める「教員評価制度」、「教員には意味のない報告書を出させる」「校長には教員を管理させる」→「教師の自由裁量・やりがい」をうばってきた。●

 現在の教師たちは「やりがい」をもって仕事ができているのでしょうか。板倉さんが生きていたら、どんな発言をしたのでしょうか。

 

7月25日

7月27日、一生を美しく自分が満足できるように生きる

 1988.6.26熊本にて、山田正男編「ガリ本図書館20号」『たのしい授業』1988.8月号, 板倉58才

 私が『かわりだねの科学者たち』(1987仮説社)という本を書いて、描いてきた日本のかわりだねの科学者たちの1つの特徴は〈一生をたのしく生きた〉という感じの人たちばかりなのです。ある一瞬をたのしく生きて死んじゃったとか、情熱をこめて心中したとかいうんじゃなしに、最後の最後までたのしく生きた。

 私はやっぱり「ふつう憧れられるような、途中で死んでしまうようなことではなく、一生を美しく、自分自身が満足できるように生きる」というのが好きです。そういう点では「ガリレオが一番ステキ」だな。ボクは、やっぱり80~90才くらいまでは仕事をしたい。年をとったら年をとっただけ、たのしく、人を妨害するのではなく、少し人の役にたつようなことをしたい。

 ガリレオはほとんどの論文をイタリア語で書いた。イタリア人が読める。なぜ最後まえイタリア語で書いたのか。

  国際性より民族性を大事にしている。いや、民族性よりも、ふつうの人間を大事にする。そういう形で学問はできていく。

[ひとこと:井藤]

   ガリレオ(1564-1642)は、78才まで生きました。500年も前のことなので「今なら90才」と言えるかもしれません。板倉さんも自分の言葉通り87才まで人生を楽しみました。

 私の近所には2人の偉大な先輩がいます。犬塚清和さん(1942-2019)は76才、松崎重広さん(1948-2007)は59才、二人は日々200%、情熱いっぱいの人生でした。そういえば、私と同学年の女優、島田陽子さんが亡くなりました。だれもが「惜しいなあ」と思ったことでしょう。

 でも私はガリレオのように生きられると良いです。日々50%でいい。

2022.7.27

 

7月28日 なにわの日

 山本正次談「ぽち」

 私は、毎朝、京橋駅から事務所まで歩いている。その途中に犬がいて、いつも私に吠えてくる。

ある日、私は、その犬を「ぽち」と命名し、毎朝「ぽち、ぽち」と呼ぶことにした。

なんと1ヶ月も過ぎると、その「ぽち」は私にクンクンとなついてきて、吠えることもなくなった。

子どもでも同じことだ。クラスに、わんぱく坊主、しょうもない奴だ、と思う子がいても、毎日、

声をかけよう。犬でも1ヶ月で振り向いたのだから、人間なら、なおさらだ。「子どもに向かって歩こう」

7月28日、新しい時代に即した精神的な充実した生き方をしょう

                       板倉聖宣『未来の風』より

 

 新しい時代に即応した,最も精神的な充実した生き方をしよう。その ためには,一番若い人たちとつき合っていく。そんな教師が「たのしい授業」ということを訴えていくことは,学校教育だけでなくて世界の一つの変革になっていく。最も先駆的な仕事になっていく。若い人たちが、勉強が好きになり,働くことが好きになる。世に出てから本当に働くことが好きになる。

 つまり、若い人も教師も「これからの一生の生活を好きになる」ということです。

 

[一言:水口]

 朝の板倉さんの一言は、「今日一日の励み」です。ご飯一杯のように生活の糧です。ごちそうさまでした。さあ、出かけよう!!

●7月30日 優等生になることを拒否しつつ、自信を持って生きる

 

「犬塚さんの『教師6年プラス1年』ー論文集の出版によせてー」

  『科学教育研究』No.9(国土社1972年7月30日)

 優等生になることを拒否しながら、劣等感をもたずに自信をもって生きるような人びとー私が期待をかける人びとはこういう人びとである。そこで、そういう人びとはどのようにして生みだすことができるかということが私の研究の課題ともなってきた。私が仮説実験授業を提唱してきたのも、そういう主体性のある子どもを生みだすことを期待したからだということもできるだろう。

「優等生と劣等生(教育を考えなおすための小事典17)『たのしい授業』No.7,1983年10月号、仮説社

 優等生になるためには、このような自分なりの考え方をのばすことを断念して社会に順応しなければならないことが少なくないのだが、あえてそれをしないと劣等生になってしまうことが少なくないわけである。....新しい時代の開拓者はたいてい古い時代の劣等生であったことを知ることによって勇気づけられるであろう。

 

(ひとこと:井藤)

 由井宏幸さん(愛知)から手紙をもらいました。その最初に掲げられていたのが、上の「優等生になるのを...」です。由井さんは「自分のものさしに価値基準を置いていますが、他人の授業などに対しては批判しません」と書いています。私は「由井さんは究極の自己中だ」と思っています。感情的に他に批判的な言動をするよりも、まわりの人びとも味方に引き入れていく方を選びます。

 私が「優等生になるのを...」という言葉を初めて見たのは、ガリ本雑誌『仮説』の表紙でした。それは犬塚清和さんの手作りで100部ほど作られました。その犬塚さんのことを、指導教官だった人は「犬塚っていう男は頭もよくないし、不勉強な男だが、最近はよくやっているようだね」と言っていた(上述、板倉1972)そうです。

 そういえば犬塚さんも周りのみんなから好かれる人でした。きっと「究極の自己中だった」に違いありません。

 

7月31日 なんて最高の日 「そうして再発見した最高の娯楽。だから教えてあげたい!」

 松本キミ子「美術は最高の娯楽です」『たのしい授業』1986.1月

 もともと最高の娯楽である「絵」をきちんと教えないで,ダジャレと散歩であきさせないように努力していた私は,とんでもない見当違いをしていたのだ。

(ひとこと)たまには美術館めぐりも良いかも、外は暑いし。

 

8月7日、まず仮説として受けとめよ

仮説社設立の言葉より(竹内三郎)

 .....既成の教育的「常識」を一度捨てさり、すべての主張をまず仮説(疑わしきもの)として受けとめ、これを社会的実践(実験)によって検証しなおさなければならない。それはひとり教育の分野に止まることなく、むろん自然科学教育に限定すべきではない。

 しかし、「学問」を職業とする大多数の人びとがこのような営みを放棄している現状では、知的好奇心に富む「素人」がその任にあたらざるをえない。

 仮説社は、このような読者との連帯を心から願う。そして、読者が「読者」として固定することなく、それぞれ自らの仮説を世に問われんことを

              『仮説実験授業研究』第1集 1974.6.20

[一言:井藤]

 コロナが蔓延しています。多くの「知識人」と称される人たちは、自分の言っていることを「事実」のごとく語ります。それは、ほとんどすべてが「仮説」です。未来のことはだれもわからないと思います。皆さんはどう思っていますか。

 

8月8日 「大笑いの日」

 竹内三郎『負けてうれしいカレンダー』仮説社2022.12

 もちろん、はははのひです。大笑いは体にとてもいいのです。(免疫細胞のナチュラルキラーは、笑うと活性化して、ガン細胞などと戦ってくれます。アニメ『働く細胞』より)

 

8月9日 はたらく日 もっとも基本的な〈重さ〉と〈所有〉 

 板倉「森羅万象分類学入門の構想」『楽しい授業』1994.1月号

 私が前々から「いつか作りたい」と思っていた授業書に〈ものとその所有〉があります。〈ものとその重さ〉が「自然科学の対象とするもっとも基本的な概念である〈重さのある物質〉全体」を見通すことを狙いとしているのに対して、この〈ものとその所有〉は「社会の科学の対象とするもっとも基本的な〈所有〉という概念の広がり全体」を教えることを狙いとしたもの、ということができます。

 誰かがそれらの〈もの=物質〉に労働を加えて、自分の「所有物」と主張するようになったとき、それらの〈もの〉は〈社会的なもの〉となり、社会の科学の研究対象になるのです。

 つまり、「社会の科学では、自然科学の〈重さ〉の概念に相当するもっとも基本的概念として〈所有〉という概念があるのではないか」というのが、私の着眼点であるわけです。

8月10日、個性は落ちこぼれ意識から生まれる

             (初出:『理科の研究』1988年4・5月号,大日本図書)

 もっと大胆に「おちこぼれることのできる余地を残す必要があるだろう。「個性などというものは,たいていある種のおちこぼれ意識から生まれる」といっていいと思うからである。

(ひとこと:井藤)  そうだ。落ちこぼれ意識を大切にしなくちゃ。がんばらなくてもいい。もう寝よう。

 

8月11日(山の日) 「私もファラデー」の日

板倉,山田「ガリ本図書館」『たのしい授業』1990.4月,1991.9月号

 

 山田正男は「現代のファラデー的素人科学者の一つの典型」です。「世界最強のネオジウム磁石なら,それを持っていないファラデーさんの実験はすべてできるハズだ」と誤解して,〈キュウリの反磁性〉を発見した。

(ひとこと) 「山の日」は2016年に始まりました。理由の1つに「お盆休みが1日長くなる」もあったらしい。私もファラデー、何か工作やってみたいです。

 

8月12日 落ちこぼれは科学者の卵だ

                           『家庭教育新聞』1986年4月12日

 砂鉄は鉄ですか? もし鉄だったら、雨が降ったあと、真っ赤にサビちゃうはずでしょ。小学生のころからずっと疑問に思っていて、やっと40いくつになってわかったよ(笑)

 子どもは、ごくあたり前とされている周知の事実に多くの疑問符を抱くものだ。けれど、はたして彼らの疑問にどのくらいの先生が、または大人が答えることができるだろう。その前提、耳を傾けることすらしないのではないか

(ひとこと:井藤)今日、日本語の授業をしていて、ある人が「先生、速すぎる」と言ってくれた。嬉しい一言だった。

⚫︎8月15日 極端な民族主義は正義の主張を伴う

板倉『『たのしい授業』2007年3月 No.320

 日本がく大東亜戦争〉に突入したのも,極端な民族主義の普及による,と言っていいと思います。自分の国の民族主義だけではありません。「ほかの国の民族主義をあおるようなこともしてはいけない」と思います。

 ドイツにヒトラーが現れたのも,ドイツだけの責任でなく,近隣諸国がドイツを苛めすぎて,ドイツに国家主義的な感情を高めることになったと思うのです。

  その点,いまの日本の状況は,「悪い方向に向かっている」と言わざるを得ません。「愛国心」などというものが強調されるようになってきているからです。愛国心などというものは自然に育つもので,それさえ危険なことがあると思うのです。最近の北朝鮮苛めも,同じように心配です。いくら相手に悪いことがあっても。苛めれば苛めるほど,相手の国家主義を高めることになるのが心配になるからです。 

  第二次世界大戦までは.各国が民族主義を煽りあった時代とも

言えます。しかし,戦後は長く平和な時代が続き,国際主義,平和主 義,ヒューマニズムが普及してきました。私たちは,その考え方をさらに普及して,極端な民族主義の普及を阻むことが大切だと思うのです。

 〈極端な民族主義〉は「正義」の主張を伴います。正義が好きなのはいいのですが,「これからの正義は,国際主義,平和主義,ヒューマニズムに基づいたものでなければならない」ということを教えることが大切でしょう。                       『たのしい授業』2007年3月 No.320

(ひとこと)宮崎市の丘の上に「平和台」があります。大きな「八紘一宇(全世界を天皇のもとに一つの家とする)」の塔が建っています。私の父は、そこでお祈りをしてから戦艦で南方に出征したそうです。どうして「平和」が「戦争」に結びついたのか。不思議でなりません。

 

8月18日 やると決めたらわき目をふるな(やる、いま、やる)

 1988.7.山田編「ガリ本図書館」19『たのしい授業』1988.7月

 他のことをやると散漫になっちゃう。次々と連鎖反応が起こらなくなるんです。「ついでに何かをやってはいけない。一つのことだけをやれ」というのが私の今の方法論です。

 

8月27日 キリン館の日、「未来はゆっくり楽しむもの」

 板倉「キリン館30周年おめでとうございます」2011年、岸広昭さん提供(7月14日の続き)

 私は、仮説実験授業提唱の3年後に『未来の科学教育』を世に出しましたが、同書は今なお「未来のもの」となっています。「先の見えすぎ」は「お先まっくら」となりがちですが「未来はゆっくり楽しむもの」との思いを新たにしています。 

 ムリせずに、おたがいに未来をゆっくり楽しもうではありませんか。着実に未来に進めば、未来は明るいのだ、と思います。

 

9月02日 グラフの日
板倉談,山田編(2010.5.2 東大駒場にて)「はみだしたの」『たのしい授業』2010.7月 

(私の「考え方」は) 私の「数量的な見方考え方」がもとにあって、その上に私の「幸福論」があって、 その後さらに「仮説実験的認識論」ができている。 

 09月09日 サークル、サークルの日

9月10日 句読点の日「言葉の民主主義と句読点」

 板倉2007.1.12仮説会館にて『発想法講座』2006/2007ザウルス出版

 日本で句読点(テン、マル 。)をたくさん入れるようになったのは、明治になっていわゆる理系の学者たちなんです。文化系の学者たちはずっと抵抗している。僕は句読点を最もたくさん入れる主義の人間です(笑)。〈かこみ符〉とかいろんなものを使ってね。するとすごく読めるんだ。言葉の民主主義につながる。へたな国語の入学試験はいらなくなる。句読点とは〈無いものがある=ゼロの概念〉なんです。古代ギリシア原子論の「真空=ゼロ」の概念です。

9月12日 ヘラクレイトスの日

ギリシャのアカデミア 9月16日 民主主義の旗を高くかかげよう

ー科学教育の現代化に先立つものー  1963.9『科教研月報』

 私の発想は、何よりも、これまでの理科教育のあり方に対する憤りに発している。それは従来の理科教育の非民主的なあり方に対する憤りといってもよいであろう。..... 

 科学というものは、その本性上だれにでもわかるというものである。ところが、日本の理科教育は、ーー明治初年の先進的な洋学者たちの努力を別とすればーーけっして科学を人民大衆のものとさせようという意図をもたなかった。......だからこそ、私は従来のような「理科」の教育ではなくて、本当の「科学」の教育をはじめなければならないと思うのである。

 日常身辺の雑多な事実の集積である理科で子供たちを苦しめ、彼らを科学から遠ざけることをやめて、本当の科学を味わわせようという民主的な要求にもとずくものであるはずである。.... 一部の優等生だけ理解しうるような科学教育のプランが生まれるとすれば、それはやはり、大衆の愚民化とエリート科学者の養成を夢見る独占資本の意図にかなうものになってしまうのであろう。

 ...「科学を全国民のものに」という、より一般的なスローガンで科教協がまとまってほしいと思う。...そして、どんなときにでも、科学をすべての生徒(ひいては大人)のものにするためには、どのような科学教育がうちたてられなければならないかを念頭において討論してほしいと思う。

 

(ひとこと:井藤)

 現在(2022年)の理科教育に対する政府の要請は、どんなものであろうか。安倍内閣は「科学技術立国」を掲げ、理系の大学の拡充を図った。

 小中学校の「理科教育」に対しても、「世界に負けない科学力」という要請はあっても「科学を全国民に」というスローガンは聞いたことがない。

 板倉氏の上の文章は50年前のものだが、2022年の現在、状況は全く変わっていないように、私は思うのだが、どうだろうか。

「科学教育の現代化」の流れ

1961年

  4/12    ソ連,有人人工衛星ガガーリン

  9/1115 PSSC関係者,日本の代表的物理教育関係者

  約50名にPSSCについての講義セミナーを東京で開催 

 

 

9月18日 科学と〈デマ宣伝〉 

ー大まかでも視野ひろくー   板倉聖宣 『学生通信』三省堂,1964.9.1より

 私たちが「科学的な考え方・態度」というものを身につけなければならない最大の理由、それは自然と社会についての無意識的あるいは意識的なデマ宣伝に引っかからないような人間になるためではないでしょうか。

 

(井藤)板倉さんの話を読んで、まず最初に思い出したのが姉のことです。

 私の姉は「コロナワクチンは打たない」とずっと言い張っていました。ある医師の講演を聞いて、頑なに「打たない」と言い続けていました。しかし、子どもたちが総出で、なんとか説得して、打つことになりました。今は、何もなかったように、ふつうに暮らしています。それは「デマだった」のでしょうか。著者が言うように2~5年後にわかることでしょう。

 

 

 たいていの場合、ただ自分がうっかりしていただけでなく、相手側の言動の中にも、うっかり者の自分をおとしいれるようなトリックのかくされていたことに気づくでしょう。うかつにトリックに引っかからぬような態度、それが科学的な態度といえるかもしれません。

 例をあげて説明しましょう。昔の人びとは長い間、地球が静止していて太陽その他のすべての星が地球のまわりを回っていると信じていました。それはいわば、自然のトリック、デマ宣伝に引っかかったようなものです。

 

 分の予想がはずれていても、それはひとつの失敗とはいえないでしょう。予想というのはあくまで予想にすぎないのであって、それが違うかもしれないということは、あらかじめ十分承知しているはずのものだからです。私たちは「当たりそうもない予想ばかり立てて、いつまでも真実がつかめない」ということがなければよいのです。

 

(井藤)世の中には「健康」に関する情報があふれています。音田さんは「シルバー世代にとって、健康の話は[耳にタコ]」と言っています。結局「どの情報も信じられない」となってしまっているのです。では、どうしたらいいのでしょう。

                  →1970年代「紅茶きのこ」なんていうのがありました。

 

 大まかなことでもよいから、もっと広い視野に立って問題を考え直してみると、案外相手のまちがいが見つかるものなのです。

 

(井藤)結局は「何をするにも仮説実験」ではないでしょうか。実験の前にいろんな人と討論することも大切なのかもしれません。

 最後に、私の好きはトリック。「バームクーヘンの錯視」です。どう見ても、下の方が大きく見えるのはなぜでしょう。トリックも楽しめる心の余裕が持てるといいです。