5月14日 母の日「貧しくなければ叱られない」

 板倉(1988.5.1)「自分自身が主人公となるための組織論」『時代を拓く仮説実験授業』つばさ書房

  私がオヤジやオフクロに叱られたときに「うちが貧しくなければ,このことで叱られなかったはずだ」と思った。叱られなくて済むようになるには,貧しくなければいい

 私は、そういう叱り方を子どもたちにしなくて済みます。心はオヤジやオフクロの方がずうっと暖かかったかもしれないけれど、明らかに物質は私の方が持っている。結果として暖かい。そういうことも含めて組織というものを考えていきたいと願っています。

(ひとこと 最近、3度おばさんからどなられてました。「衣食足りて他人の笑顔」と言いますが、逆も真なり。「他人の笑顔」が欲しくない人は「自分の心が貧乏な人」では。私が「心の金持ち」になるには「仮説実験授業をする」ことかな。...「母の日」です。お母さんの笑顔が見られますように。

 

5月10日 いつもと同じふつうの日

 永岡修「山本正次先生」、山本正次『国語科よみかた授業書案集5』キリン館,1991

 僕もこういう教師になりたいという理想の先生が山本先生でした。『さらば優等生』においては、優等生=先生と思っていた僕に、優等生でない僕でも、教師を続けることができるんだ。逆に優等生じゃない僕なら、優等生じゃない子の気持ちがわかる。それなら僕も教師を続けていける、そう思わせてくれました。

(ひとこと)山本さんの授業書案で、くどうなおこの『のはらうた』から「いいてんき」が大好きです。「きょうはほんとにいいてんき だれかとはなしをしたくなる からすさんやちょっと おちゃのんでいかんかえ わたぐもさんや ちょっときて かたもんで くれんかえ ああ いいながめ いいきもち きょうは ほんとに いいてんき」.....いつもと同じふつうの日がすばらしい、ふつうの先生が何よりもすばらしい。それを教えてくれたのが山本正次さんです。

 

 

5月12日 誤謬(ごびゅう)の日

 板倉(1953)「誤謬論」『科学と方法』季節社1969、70ぺ

 人間は自然に問いかけ、成功したり、うらぎられることによって真理とその条件を見出し、自然に対する認識を深めて来たのである。誤謬をおそれず自然に働きかけ、誤謬から学ぶこと、これが認識を深める唯一の基礎であるところの実践の基本的な内容をなすのである。「失敗は成功のもと」と言われる。何時も失敗しているうちに自分の間違いに気づき成功するにちがいない、というのである。

(ひとこと)野球で「3割打てれば大打者」である。3回やって1回くらい失敗するのは、大大大打者の証拠では。

 

5月30日 我々がデマ宣伝を見抜けたなら、「誤謬,去れ」の日

 板倉(1953)「誤謬論」『科学と方法』季節社1969、72ぺ

 我々は「大東亜」戦争を許した失敗をわすれることはできない。我々がデマ宣伝を見抜けたなら、もっと国民同士が団結していらなら、あの様なことにはならなかったということは出来ないだろうか。真理を我々のものとすること、これが何よりも大事なことではなかろうか。

(ひとこと) 我々「戦争を知らない子どもたち」は、体験者の言葉を聞くといつもドキッとする。

 

5月14日 誤謬もいいよ、「失敗したらシメタ」

 竹内三郎「弁証法かるたの試み」『ものの見方考え方』第1集、季節社1981

 たいていは「よけいな知識があるからまちがえる」のである。いっそ「まちがえないようにする教育」はあきらめて、「うまくまちがえるようにする教育」こそ必要ではないかという気がする。

 実は「しっぱいしたらシメタ」なのである。なんとなれば論理の有効適用範囲を実践的につきとめたときを普通「失敗」とよぶからである。

(ひとこと)「何をするにも仮説実験、法則求めてまた実験」、伊藤善朗さんの歌より

5月6日 子どもに向かって歩く日

 山本正次「はしがき」『子どもに向かって歩く』太郎次郎社1977  (5)どもに(6)かって

  世の中が悪くなって、子どもがすっかりだめになってしまったと嘆いてばかりいる人があります。が、子どもは、やはり子どもです。むかしの子どもも、いまの子どもも、教師のほうから歩いていけば、とびついてくれることに変わりはありません子どもの欠点が見えるばかりで、子どもというすばらしい人間がみえなくなってしまうのではないでしょうか。


5月31日 ビリッかす 向きを変えれば 先頭に (ごみでもいい日)

 板倉『発想法かるた』1992,仮説社,54ぺ 

 みんながある方向で走っているときに、わからないことを「わからない」などと言っていると、自分だけ取り残されてしまいますが、そのうちに、わけもわからずにはっしぐらに進んでいた人たちが間違っていたことがわかったりするのです。時代の変わり目いはしばしばそういうことが起きるのです。

 

(ひとこと) ガリレオも、他の学者たちから見れば「ビリッかす」だったと思います。最先端の人たちは、それまでの学問を一生懸命勉強していたのでしょう。〈異端であること〉を勇気づける言葉です。

 退職前に「冬のゴキブリのように」と千葉の重弘さんから言われました。じっとしていればたたかれない。今日は部屋そうじをして、ごみの中に「宝」を見つけたいです。

 

5月17日  快楽授業  ごちそういいな、エピキュリアンの日

 板倉「きっかけの論理と楽しい生き方 ●仮説実験授業提唱40周年祈念の会に向けて」20p. 『仮説実験授業研究会ニュース』2002年8・9月号 犬塚/編集 

 「快楽主義」とは,自分たちで言ったらしいんです。正確に訳すと「たのしさ主義」です。「たのしい授業」 というのも「快楽授業」と言ったら「何かすごい授業みたい」になってしまう(笑)。

 エピクロスが「たのしい生き方は、神様など気にしないで,人間らしくすることだ」と言ってることは,あきれるくらい私の考えにそっくりです。

 (ひとこと)エピキュリアンは「美食家」と訳されることがあります。今日は、おいしいものを食べて、明日は「快楽授業」をしましょう。

 

5月10日 落ちこぼれる能力を身につける (おちこぼれの日)

  板倉『板倉教育学の基礎4』(犬塚編,ガリ本図書館 2015年)               「おち こ棒零」

 「落ちこぼれる能力がなかったらだめだ」という考えがぼくにはあります。これまでの社会の中では,適応できなければ落ちこぼれてしまいます。普通は,なかなかそれを突破できるチャンスがありません。

 

(ひとこと) 西村さんが「無理したらいかんで」と言ってくれました。70.80.90才の壁を突破する秘訣は、他の人ががんばっていても「落ちこぼれること」かもしれません。血圧をあげないように。

 

5月5日 子どものような好奇心はすばらしいか    子どもの日

 竹内三郎「ほんとうに知りたいことは、範囲をうんと限定しないと、確かなことはついにわからない」『負けてうれしいカレンダー』2022.12仮説社

あなたは子どものような好奇心の持ち主ですね」と言われたら、うれしがっていいのでしょうか。

 人間は成長するにしたがって好奇心は狭くなり、そのかわり、関心の深さは増します。科学者の好奇心は、とてもとても狭い範囲に向けられるかわりに、深くなります。その深さの程度によって、視野がうんと広くなることはありえます。でもそれは「子どものような好奇心」とは違うのです。

 

 (ひとこと)歳をとり、目が悪くなると、視野が狭くなるらしい。でもそれもいいことかもしれません。

 

5月4日 正直なお客がいちばん        おまけの日

 渡辺敏(板倉訳)「長野における〈正札商法〉のはじめ」『たのしい授業』1987.9月号

 田舎のお客はやたらに値切ります。〈あなた様のことだから特別におまけします〉という商人の言葉を真に受けて〈自分だけが特別扱いされている〉と思って得意になるのです。

 「正札つきにしたら、一時的はお客は減ることもあるかもしれないが、正直なお客を相手にした商売をした方が安心だ」と思ったのです。(「町一番の金持ちで、最も正直な商人」の話)

(一言)安倍総理時代に「忖度」という言葉が流行りました。でも結局は「正直がいちばん」と多くの国民が体得したと思います。1985年5月4日は「祝日」に。「飛び石連休」が「ゴールデンウイーク」になりました。2007年から「みどりの日」に。

 

5月3日 民主主義のいいところ  (憲法記念日)

 板倉『科学と方法』255ぺ、季節社1969

 民主主義というものがいいのは、そこでだれでもすぐれたアイデアを出し、みんなのアイデアを利用できるということです。そこでは、どんな人でもその集団の発展に寄与できるのです。普通、学校では優等生から劣等生までの序列が決まっていますが、それは平均点だけの話です。ときと場合によっては、劣等生だってすぐれたアイデアが出せるのです。それが社会というものです。民主主義の平等の原理は一つには、すべての人間が何らかの形で社会に寄与できうるということを基礎にしているのです。 

(ひとこと)『たのしい科学の伝統にたちかえれ』(185ぺ)には「科学教育の目的は、ある意味でそういう〈社会の一員になる〉ことです」 とあります。仮説実験授業は、民主主義のための授業です。 

 

5月2日 科学の日 (板倉聖宣さんの誕生日)

 板倉(1990)「科学の碑 由来記」

 人類は科学によってはじめて,〈人々の意見が違うことのすばらしさ〉を発見することができました。いろいろな人がさまざまな意見をもっていてはじめて,思わぬ真実が発見されてきたのです。そこで,科学は民主主義──少数意見の尊重と歩を一にしてきました。

 私たち仮説実験授業研究会を中心とする人々は,1963年以来27年ほどの間,そのような科学をみんなのものとするために,学校や社会の中で努力してきました。そして,〈たのしい科学の伝統〉を日本の学校や社会の一部によみがえらせることができたと自負しています。

 しかし,日本ではこれまで科学というと,一般の人々には親しみのもてないものと思われてきました。そこで私たちは,これまでの私たちの仕事の成果を記念し,かつ今後の仕事の発展を期して,この〈科学の碑〉を建設することにしました。そして,その周りの森には〈科学の森〉にふさわしい施設をととのえ,ともすれば誤解されがちな科学の性格を多くの人々に訴えることにしました。

 

5月1日 私だけは例外よの法則(主語はだれ?)   メーデー

 竹内「静かにしなさいって、あなたが一番うるさいかも」『負けてうれしいカレンダー』仮説社2022

 「正しいことは勇気を出して主張しましょう」などという人がいます。それは「もちろん私はいつも、たとえ少数派でも正しいことを主張しています」ということなのでしょうか。

 ふつうに正しいとされるようなことばは、「わたしは」という主語がしばしば省略されます。省略というか、最初から「自分」を例外にしているのです。主語のないことばを読んだり聞いたら、すぐ主語を補ってみましょう。

 (ひとこと)若い教師時代、上司に「そんな授業をするのはやめなさい」と言われたことがあります。でも今考えてみると、それは「上司がやめてほしいと思っている」ということでした。だったら、対策も変わってきます。「怒って損した」と思うばかりです。メーデー(May day)は、ヨーロッパの「5月祭り」が元です。

 

10月6日 アトムの日

9月10日 「研究とは何か」の日

  竹内(1988)「板倉先生から学んだこと」『未来の風』25、第4号 78ぺ 

 知らせてあげたいことがある。 教えてほしいと待っている人々がいる。 教えてあげたら、きっと喜んでくれるだろなあ。でも、私も知らない。 

 なんとかして調べてみよう。ああ.わかったぞ。わかった、わかった。ほら、こういうことなんだ。ほらほら、こういうことなんだよ。 

 

9月11日 私にとっての「出版・編集」

  竹内(1988)「板倉先生から学んだこと」『未来の風』25、第4号 78ぺ 

 おもしろいことがある。 みんなに知らせたいことがある。 そういうタネを持っている人がいる。 そのタネをみんなに配りたい。 そうしたら、この人も、あの人も、みんな喜ぶだろうなあ。 喜んだら、お金をいくら払ってくれるかな。 いっぱい払ってくれたら、僕もうれしいなあ。 でも、「みんな」って、誰なんだ。

 その「みんな」に、このおもしろさが伝わるかな。 伝わるように書いてあるかな。 伝わるような形にしなくちゃね。 表現は? 長さは? 文字は? こうするといいのかな。 ああするといいのかな。 間違いはないかな。 だれか怒る人がいるかな。 だれか傷つく人がいるかな。 いや、これなら大丈夫。みんな、買って、読んでね!

9月15日 科学は [長く残る仕事] を目指すもの     (敬老の日)

  板倉『仮説実験授業研究会ニュース』2011年1・2月号 聞き手,編集/斎藤萌木、4ぺ 

斉藤・・・まだ明らかになっていない「人の認識の仕組み」について、「世界に知らせるべき発見」ができるんじゃないかと思っているんです。その仕事は、 単に仮説実験授業を普及させることとも違うような気がする。 

板倉・・・ そうだよ。 たとえばあなたにできる大きな仕事は、「予想を立てることが決定的に大事だ」ということを実証すること。「科学の仕事」は「人々に伝わって残るものこそ一流の仕事」なんだよ。「自分の仕事を残すこと」が1つあるけど、それ以上に「若い人たちに自分の仕事をつなげていく」。それが「残る仕事」ということだ。 

 生きるためにはいろいろ妥協して論文の数を増やしたりしないといけないかもしれないけど、一番大事なことは、これまで日本の教育学者がやれなかった「残る研究をする」ということだね。 

 僕なんか自然弁証法研究会を始めた頃からそう考えてるよ。明らかな成果を世に残すということ。世に知らせるんじゃない。残すんだ。 

(ひとこと)敬老の日は、2003年から9月第3月曜日になりました。「残る仕事」何かできるかなあ。

 

9月16日 帰納からは何も出てこない。

 板倉『仮説実験授業研究会ニュース』2011年1・2月号 聞き手,編集/斎藤萌木、5ぺ 

 いわゆる帰納法っていうのは「実際起こったいくつかの偶然を集めてくれば、法則を発見できる」という考えだけど「法則の発見」は、「仮説を立ててこちらから問いかけてやらなければならない」のであって、「帰納からは何も出てこない」というのは認識論的には当たり前になっている。 

 

9月12日 ヘラクレイトスの日

09月09日 サークル、サークルの日  ギリシャのアカデミア

6月02月 ルクレチウスの日

9月02日 グラフの日

 板倉談,山田編(2010.5.2 東大駒場にて)「はみだしたの」『たのしい授業』2010.7月

 (私の「考え方」は) 私の「数量的な見方考え方」がもとにあって、その上に私の「幸福論」があって、その後さらに「仮説実験的認識論」ができている。

 

11月4日 正しい「問題意識」か、を考える日

  (もんだいいしき)  板倉聖宣講演集『ゆるぎない原則』ガリ本図書館,1998 より

 「正しい問題意識は半ば問題を解決したに等しい」これはマルクスの言葉です。私は学生時代から,この言葉を振り回していました。私にとっては,世の中の人々が「これが問題なのだ」と言っていることも,その大部分が「問題」たり得ないのです。その「問題」らしきものも,少し本源的に考えると,たいてい〈解決すべき問題ではない〉ことがわかるからです。教育問題でも私は,昔から言われてきた問題」を全面的に疑ってきて,新しい発想を得てきたと思っています。たとえば,「入学試験が諸悪の根源だ」という考え方があります。でも私は,「本当にそうか?」と根本から考え直すのです」

(ひとこと)子どもたちによく言っていたのは「正しい」という字は[一]と[止]、一度止まって考えよう。忙しいときこそ!

4月16日 おもしろいことを考える日 (なんでやねん)

 一流高校を出ることが幸せだと思って,どこの中学も「一流高校に行かせることが至上の教育目標」だったりしている。それが間違いです。

 だいたい,学生をダメにしているのが教育です。おもしろいことを考える生徒がいるのに,つぶしている。だから,ある意味ではルネサンス高校みたいなところがもっとも健全なんです。

(ひとこと) ルネサンス高校で英語を教えました。そのとき、ある生徒に「ぼくの人生に英語は必要なんですか」と聞かれました。ルネサンスの生徒は、本当に優秀です。今日は、何かおもしろいことを考えたいです。

(ここから)

4月28日 不勉強は罪になる  ゴールデンウイークどう過ごす?

  板倉 (板倉聖宣講演集『たのしさからの出発』1994年,ガリ本図書館)

 〈人間として豊かに生きたい〉と思ったら「そのように生きられる」なら簡単です。しかし未来が見えなければ,目の前のそれぞれの現象にいつでも心を惑わされてしまう。

 〈目の前に起こった現象に対して心優しくつき合っていればこの世を豊かに生きられる〉と思うのは,そうとう甘ったれの人です。

 これまでは甘ったれの人が善意だけで生きていっても許されたところがありますけれども,社会が大きくなり,教育への期待が大きくなっている今日では〈不勉強でいること自体が罪になる〉と私は思います。

(ひとこと)ゴールデンウィーク、どうすごしますか。板倉さんに「不勉強」「不届き者」と言われないようにしたいです。

 

4月30日 幸せの「ミオ」の日

   雁金隆、 雁金美佐枝

 素数 2.3.5をかけると「30(ミオ)」になります。そんな素数の並びは、電子配列や宇宙の構造とも繋がっていて「数学は自然科学なんだ」と実感しています。

 ちなみに素数2.3.5.7.11.13(ニー/サン/コン/ナ/イイ/ヒトサ) は、かけると30030(ミレレミオー)になります。ミレレミオーのふしぎなかがみ』(清風堂書店2019)の主人公がそれです。

(ひとこと) 大阪府交野市私市の植物園前に「ミオ」というカフェがあります。四條畷学園の元教師お二人のお店です。30030個の魅力があります。一度行ってみませんか。

 

4月27日 人は機械ではない

 板倉『板倉教育学の基礎4』(犬塚清和編 ガリ本図書館発行 2015年)元は19736月号の『ひと』

 機械は,いつもきめられたとおりに,正確に動く。けれども,ひとはそんなことができない。ひとがひとらしいのは,自分のやることを自分できめて,たえず失敗しながら,新しい生活をつくりだすことにある。 

 ところが,今日の教育は,しばしば「ひと」までも機械にしようとする。だれかに命じられたとおり,正確に早くことを運ぶ「ひと」を作ろうとする。恐るべきことだ。自分で自分の興味・価値基準を創りだして,充実した生活を生みだしうるような人間を育てること,これこそが「ひとの教育」というものではないだろうか。

(ひとこと)学校でタブレットを使うことがふつうになってきました。そんな今こそ「ひとの教育」で何がやれるのか考えるのは意味深い気がします。

wikipedia「モダン・タイムス」より


4月23日 社会を見直すメガネ (良い兄さんの日、松崎さん)

 板倉「すいせんの言葉、グラフは自分でかくものかきなおすもの」

                   松崎重弘『社会を見直すメガネ』国土社1985

 「やっと、すてきなグラフの本ができる」この本の原稿を見て、わたしはいま、長年の期待がかなえられてとてもうれしい気分です。松崎さんは小学校の先生なので、その強みを発揮して、そのグラフ熱をクラスの子どもたちにまで感染させることに成功しました。そこで、「こういうグラフは小学生でもだれでも興味をもってかけるようになる」ということが証明されたのです。

(ひとこと)あなたにとって「良い兄さん(姉さん)」はだれですか。私は、何といっても松崎さんです。書棚の『社会を見直すメガネ』を開いてみると、松崎さんの手書きのサインがありました。

 

松崎重弘(1948-2007.12.1)wikipedia「量率グラフ」より


11月26日 「いいチーム」の日、ありがとう, サークル仲間

 板倉「聞くは一生の恥、聞かぬは永遠の謎、こっそり知ろう、常識は」『発想法かるた』1992,仮説社,53ぺ

 あまり人に馬鹿にされると自信がなくなるので、あまり馬鹿にされるのも考えものだと思うのです。

そして、かなり勉強したところで、「わからないことはわからないと言おう」といいあえる仲間を作ることが大切だと思うのです。

 

(ひとこと) サークルなどで仲間といると、いつも思い出すのは、さだまさしの歌です。「並んですわって一緒に沈む夕日を眺めてくれる友がいれば、それだけでいい」『人生の贈り物』(楊姫銀・さだまさし詩, 2003)

 

 

4月22日 良い夫婦の日 [ーβ] と [+α] とで考える

   板倉談, 1980年頃

 かっとなって怒ってしまうのは、相手の悪いところ(マイナス)が見えるからです。冷静になると、相手の良いところ(プラス)も思い浮かぶはずです。

 マイナスβとプラスαを考えたらどうでしょう。

(+α)+(ーβ)=+(プラス) ということはよくあることです。

 

(ひとこと)我が家は仲が悪いわけではないのに、しばしばけんかになります。学校でも同様です。「+α」が頭に浮かんでくるように、もう少し賢くなりたいです。

 

4月15日 自然科学誕生は1回のみ (自然科学で行こうの日)

 板倉『科学と教育(科学の新しい分野・授業科学を確立するための組織論)』94ぺ、 キリン館1990

 原理的には、ギリシャで科学が生まれ得たものならば他の所でも生まれ得るわけです。でも考えてみてください。生命は自然発生したんでしょ。しかし、今は自然発生しない。その最大の理由は〈今、生物がいるから〉です。

  同じように〈すでに科学がある状況〉のもとでは、必ずどこからか入ってくる。そして、その方がずっと能率的だから自然発生しないのです。

 

(ひとこと) 「科学発生は一回しかない」「一回でいい」と聞くとなんかロマンを感じます。(古代エジプト、メソポタミア、中国ではないんですね) 。私の人生も1回しかない。

 

4月29日 「動植鉱物名」は一度、漢字で書くといい(漢字の日)

 板倉「はみだしたの」『たのしい授業』1984年1月号

  アサガオは朝顔,ダイコンは大根,モンシロチョウは紋白蝶,スイショウは水晶と書く。そんなこと教えるまでもないことだと思うと案外さにあらず。感心する子どもも多い。

 ハツカダイコンは二十日大根。種をまいて20日ぐらいで収穫できるから二十日大根。アンザンガンは昔は安山岩と書いた。アン山とはアンデス山のこと。アンデス山岩です。

 チョウセキは長石,キセキは輝石,セキエイは石英。これは秀でた石という意味です。

 漢字で書くと親しめるものがけっこう多い。かなもじの方がわかりやすいとは限らない。

しかし,タンポポのことを蒲公英と書く等は愚の骨頂。蒲公英は中国語で日本語でない。

 

(ひとこと)  子どもたちや外国人が「漢字っておもしろい」と思えたら、どんなに幸せでしょう。友人の外国人に「漢字の元になった絵」を教えていて聞いた一言。「中国人ってファニーだね」。

 

11月3日 本は読むべきものにあらず  (文化の日)

 板倉「発想法カルタ、新しい生活の知恵」を使いやすいかたちに, 『たのしい授業』1987.1月号

[格言]本は買うべきものであって読むべきものにあらず

 研究的な読書をする人々にとっては、自分の発想を大事にする必要があります。多くの人々と同じ発想ばかりしていたのでは、独創的な仕事が出来ません。だから、あまり沢山の本を読むのは考えものなのです。

 私は「本というものは〈自分の問題意識に合わせて、自分の問題を解くために必要な部分だけを、自分の観点から読み直す〉というのが一番優れた読み方ではないか」と思っています。

(ひとこと) 橋本淳治さんは、この言葉を忠実に守っている人です。「社会の科学の研究者」は「文献に頼る(すぐ文献を読む)」人が多いのですが、彼は違います。板倉さんも、授業書開発講座では、まず参加者の資料の表紙だけを見ます。中身は見ません。そして長い話を始めます。

 わたしも、1900年代のハーシェルという科学者の英語の本を読みました。読んだといっても「仮hypothesis」という言葉だけを探して(30か所しかなかった)、その箇所をgoogle翻訳しただけです。

 

4月28日 最も重要な変革は気付かない (良い! ニヤニヤの日)

 板倉「真の変革とは何か」『たのしい授業』1988年1月号、pp.30-31

 明治初年の四民平等の政策は、ヨーロッパの先進諸国と比べても,もっとも徹底した内容のものであったことは注目されていいはずなのです。日本の初等教育がその後ヨーロッパ諸国と比べてずっと平等なものになったのは,もとはといえばその政策のおかげなのですが,その政策は,あまり注目されていません

 むしろ抵抗が少なくて,多くの人が気づかないうちになされるような変革のほうが魅力があるとも言えるのではないでしょうか。

 若いときはとかく抵抗の多いことをやりたがるものですが,それは自己顕示欲の現れといえるでしょう。私はできるだけ,人々が気づかないうちに,私たちにとってもっとも重要な本当の改革を成し遂げたいと思うのです。

 (ひとこと) 若いときは「本当に抵抗の多いことをやりたがったなあ」と思います。今は何となく「こんな人生で良かったかな」とニヤニヤしています。できれば、残りの人生で「本当の改革」が少しでもやれたらいいなあ。

 

4月13日 たのしい授業と世界の変革 「幸せの意味」を考える

 板倉「たのしい授業で精神的な豊かさを」『科学入門教育』7,つばさ書房1985

 子どもにとっての労働というのは,勉強です。勉強というのは本当に楽しいものだという発見をする。それなしには,私たちは楽しい人生を送ることはできないんだ。「労働というのはイヤなものじゃなしに本当は楽しいものだ」「勉強というものは本当は楽しいものだ」ということを発見できるすばらしい時代に生きているのに,なぜか「楽しい」に変える思想がない。

 「楽しい授業」ということを訴えていくことは,学校教育だけでなくて世界の一つの変革の最も先駆的な仕事になっていくのではないか。

 つまり,「たのしい授業」というのは、「勉強が好きになり,働くことが好きになる」「世に出てから本当に働くことが好きになる」、つまりこれからの一生の生活を好きにすることです。

(ひとこと)  私が最後に勤めた学校は、ブラジル人率70%で、親のほとんどは「派遣労働者」でした。何度も思ったのは「ちゃんと勉強して、学力をつければ、正社員になれるのに、なぜそれをしないのだろう」です。それは「楽しく勉強する習慣がない」からではないか。「楽い授業」は、社会を変革する思想なのです。

 

4月25日 「幸せにgo」の日

 犬塚清和、伊藤善朗「編者まえがき」犬塚著『いつも笑顔で元気です』キリン館,1990

 人間は笑顔で元気に生きることができればそれで十分。そのためには仮説実験授業を学ぶことが一番の近道である。

 

(ひとこと) 脳科学者の池谷さんの次の言葉が好きです。「もしかしたら、教育とは、生徒のためでなく、教師が元気をもらうためにあるかもしれない」池谷裕二「おわりに」『単純な脳、複雑な私』講談社ブルーバックス2013

 退職しても、笑顔の近道を、今日も歩けるといいです。

4月11日 似て非なるもの

 板倉「はみだしたの」『たのしい授業』1996年7月号 

 この世には,〈とても似ている〉と思われているのに〈全く違うもの〉がある。そういうものを〈似て非なるもの〉という。 

 たとえば「大豆と小豆」-〈豆の大と小〉の違い,〈色の白・赤〉の違いだけと思えるが,小豆にはビタミンが豊富で,ビタミン発見以前には〈脚気の特効薬〉ともされました。

 「うどんとそば」も似て非なるもの。植物学的にはソバとコムギは全く違う。コムギはコメ・アワ・ヒエと同じく禾本科の植物だが,ソバはタデ科の植物だ。

 「イヨカンとハッサク」イヨカンは表皮がいくらみずみずしくても,中身はパサパサで食べられないことが少なくない。ところが,ハッサクはいくら表皮がしなびても中身はいつも新鮮。

 学問や教育研究にも〈似て非なるもの〉が多い。何かデータを処理して〈○○教育研究〉と銘打ち,外観だけ整えたものが沢山あるが,何の役にも立たないものが大部だ

 

 (ひとこと)「似ているものにはアテンション」.......「白い粉」というと「砂糖」と「覚醒剤」。それは〈非なるが似ている〉。ともに、気を許すと、大変なことになる。その一口が命取り。

 

4月9日 数学の日 「証明」は頭のいい奴なら思いつく?

 板倉1993.2.5「〈仮説証明授業〉の提唱」『月刊発想法講座93』1994.3ザウルス出版

                4は中国語で「すー」なので9(く)と合わせて数学の日、と勝手に決めた

 「なぜ、これまでの数学教育はつまらなかったか」「無感動であったか」という謎が解けた気がします。

わからせよう」とばかり考えてしまったたのしければいいんです。たのしくて、しかもその結果が、数学に対するイメージが良くなって、しかも得た知識が役立てばいいでしょ。

 数学のたのしさは何かというと、それは「すべてと言えること」です。つまり証明できることだと。

 でも、すべての人には証明は思いつかない。それは「誰か思いついた人に聞けばいい」んです。誰かが思いついた証明を文化遺産としたのが数学の本なんです。ところが「その証明はだれもが思いつくはずだ。頭のいい奴は思いつくはずだ」なんて、そんな馬鹿なことを言うからいけない。思いつくはずないんだよ。あんなのは(笑)。

 まず数学的な概念が生活の中で生きている姿を、前面に展開する。一方では、数学というものが持つ〈論理性〉のおもしろさ。これは数学固有です。両方あるわけです。

 だから、そういう実用的な面を大事にしながらも、[直観][数学の論理性]が食い違うところをきちっと突いて「論理を重んじた数学の方が上ですよ」と言う。だけど「中々論理的にも行きませんよ」という話をくっつける。

 

 (ひとこと)友人と数学ゼミをやっていて、ある時「京大入試」を解きました。そのときの結論は「あれが解けるのは、一度、どこかで類題をやったことがある奴に違いない」です。私は英語は好きです。ひょっとしたら英語と数学とは勉強法が似ているのかもしれません。

 板倉さんが示した「数学教育の設計図」は、いまだ未完成に終わっている気がします。

 

4月7日  変わらないのが社会 変わるのが社会 (「世の中」の日)

 板倉『発想法かるた』1992,仮説社, 84ぺ、18ぺ、仮説社

 「社会も人間もそんなに早く変化するものではない」と思っていると、ある日突然と激変したりするものです。「社会も人間もそういうものだ」と見るのが本当の弁証法的な見方というものなのです。だから「変わるのが社会、変わらないのが社会」と両方の側面を見ないと見誤ってしまうのです。

 

 (ひとこと)新美南吉の「おじいさんのランプ」を知っていますか。電灯の時代に取り残された1人のランプ売りの話です。ぜひ愛知に遊びにきてください。「ごんぎつね」にも会えます。

 

4月6日 入学式、生徒たちに「笑顔の花」を咲かせたい

 犬塚「表紙2」『こんな学校があってよかった』キリン館発行、仮説社販売2017

 ぼくはつい最近69歳になりました。玄関の桜の古木の感じです。でも、この桜は春になればきれいな花をいっぱい咲かせます。そのイメージで「花咲か爺さん」になるのがぼくの目標です。生徒たちに「笑顔の花」を咲かせたいみんなで一緒に、豊田に来てくれる生徒たちを笑顔で迎え、送りたい。そんな学校を作っていきたいと思います。2011年10月,ルネサンス豊田高校開校式にて。

(ひとこと)私は学校を退職した友人に「入学おめでとう」のメッセージカードを贈っています。シルバー世代への入学式です。アメリカなどでは「Golden Years」と言います。人生100年、これからの人生を金メダルにするしないは自分次第です。

4月18日 忘れるためには努力しない   (「死はいや」の日)

 板倉1993.2.5「心の問題を考えた科学教育(「死んだらどうなる」) 『月刊発想法講座92』92.

 「死んだ人のことを思い出す」という行事があることは悪くないでしょ。だからボクにとって〈霊〉というのは〈思い〉なのである。そしてその思いを大切にすることは大事なんだ。義務的ではなく、思いおこしたい。

 弾圧するから、みんな地下に潜行しちゃう。押しつけは絶対に潜行する。「押しつけの排除」は仮説実験授業でかなり重要視してますけど、ボクにとってすごく原理的なんです。

 過去に引きずられて生きていたら大変なの。だから適当に忘れなきゃいけない。忘却術は努力してはいけない。難しいけど、大概はできるのね。みんな〈忘れる能力〉があるからです。

 逃げ場を残しておくことが大事です。逃げたい人がいたら逃げればいい。思想とか信条とかに関わることは軽く扱うとか。学校で科学教育やっているのに「霊があるというのが9割」なんて恥ずかしくない、とボクは思うのです。    

  (ひとこと)「働けば凍る暇なき水車かな」は二宮尊徳の言葉だろうか。いやなこといやなこと、とんでいけ。

 

4月5日「よく生きること」「よく死ぬこと」は同じ (死後の日)

 吉田秀樹訳「エピクロスの手紙 その3 ーメノイケイスへー」より, 井藤編『たのしい社会の科学』No.1 2005,  

 若者よ、哲学の研究を遅らせてはなりません。年老いた人よ、哲学の研究に疲れてはなりません。なぜなら哲学の研究は、幸せを求めることそのものなのです。

 年老いた人は、哲学を研究することによって、未来を恐れることなく、若き心が保てるでしょう。つまり私たちは、いつでもだれでも、幸せになる方法を研究しなければならないのです。

 どうか忘れないでほしい。明日という日は、必ず来るとはいえないけれど、必ず来ないとも言えないことを。それゆえ、明日への希望をすててはいけないことを。

ラファエロ『アテネの学堂』より、エピクロスらしい人。wikipediaより


(ひとこと)二宮尊徳の言葉が好きです。「この秋は雨か風かは知らねども今日の務めに田草とるなり」さあ新しい年度が始まります。

4月3日 組織は楽しいもの

 板倉『主体性論・実践論・組織論』1990.7月,キリン館 p.115、『研究会ニュース』2023.0号に掲載

 もともと人間というのは最低限の生活ができるならば、自分自身の喜びのほかに「他人の喜びまで喜ぶことができる大変おもしろい存在だ」と思うんです。たとえばミカンを持っていて、人にすすめる。「自分がおいしい」という感覚も大事で基本なんだけれど、同時に他人が食べておいしいと思ってくれる。その方がもっと長く喜びが続くようなものではないか。こういうことがもし本当だとすると、「社会」というものが人間にとって生きがいの1つとなるであろう。

 社会的な人間関係は「基本的に大変楽しい」ような側面と同時に「人間個人個人が違う」わけだから矛盾拮抗が起こる。それをうまく解決していけるようにすることが組織論の原則だろうと思います。

 

   (ひとこと)この話を2024年冬の大会で小原さんが講演で引用しました。94才になる母が「いやだ、いやだ」と言っていたのに、ディサービスに行くようになってから明るくなりました。人間にとって「社会」は欠かせないもののようです。

 

4月2日 とことんやって限界を知る(もしも上廻がいなかったら)

  竹内三郎談,   (ひとこと)は板倉他『仮説実験授業の誕生』1989,仮説社「あとがき」より要約

 もし「やる」か「やるまい」か迷ったときは、やった方がいいことが多い。「やって恥をかく」のは自分1人だが、「やらなくて、新しいことが始まらない」なら、社会全体の損失になる。

 

 (ひとこと) 「1963年の4月、上廻昭さんが私のところに内地留学に来られました。下っ端の私は[採用する]なんて、とても言い出せなかったのです。上廻昭さんは、所長のところに直に話にいって承諾を得るのです」板倉(1989)より

 もし上廻さんの勇気ある行動がなければ、今の仮説実験授業研究会はなかったかもしれません。

4月1日 マコトを出すためのウソ

「ウソと真実の日」昔は年齢不問で「嘘をつきあう日」だった。今、「ウソとホントの関係を考える日」として復活。

 板倉「(対談)ウソと教育」『たのしい授業』1983.10月号

 作文や絵がかけないというのは「ウソをつきたくない」という潔癖さと関係がある。「表現の自由を得るためのウソ」ということが問題になる。

 作文で「事実を書く」ということはすごくむずかしい。「このお茶がおいしい」と書くと、とたんに「ちょっと苦味があった」ということが気になる。自分が認識したものを表現しようとすると、表現しきれない。だから几帳面な人は絶対書けなくなる。

 「本当のことを書きなさい」というと書けない。逆に「ウソのことを書きなさい」というとホントのことが書ける。たぶん抑圧している夢とかタブーを書くこともある「ウソの作文」の面白さは、そういうことだね。

(ひとこと) ピカソの『ゲルニカ』(1937)は、内戦状態にあったスペインの様子を描いたものです。大きな白黒の絵で幅8mほど(教室の横と同じ)です。実物を見ると、その迫力に圧倒されながら思いにだれもが耽ってしまうそうです。