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日本人の宗教 ー仏教?神道?無宗教??ー

      この文章を読む前にぜひ「➡️お寺とコンビニはどちらが多いもみてください。

⚫︎あなたは神を信じますか?

日本人の宗教は何でしょう。

 

「大晦日はお寺、新年は神社、結婚式はキリスト教」???


⚫︎日本には、どうして「お寺」と「神社」が共存するのか?

 日本人は大昔から、自然にある山や海の島などを神とあがめてきました。

最初は、地域の氏神だったのが、豪族たちが勢力を拡大するにつれて、地域の「神体山」になっていきます(海辺では島が神となる場合もありました)。

 人々は、春になると神様を山中から降して豊作を祈ります。秋になると収穫を感謝し山中に戻します。


 そんな日本に、仏教が伝来するのは538年のことです。聖徳太子(574-622)は、法隆寺(607年建立)、四天王寺(593年建立)などを建てて、仏教の興隆に努めました。もう古墳も作られなくなります。


 その後、仏教は、地方の豪族や一般の人々にも広がります。元からあった神社=神道も残って、お寺=仏教と共存します。仏教はどうやって広まったのでしょう。


 ヨーロッパでは、古代ギリシア・ローマの宗教は、キリスト教によって、徹底的に消滅されられます。吉田秀樹さんは、次のように書いています。

 

キリスト教の国境化と彫刻の破壊

 391年、ローマ皇帝・テオドシウス1世は、キリスト教以外の神々の神殿を閉鎖するよう命じ、394年にはキリスト教以外の神々の祭典を禁止しました(キリスト教国教化)。さらに426年には、テオドシウス2世が、「キリスト教以外のすべての神殿を焼き払え」と命じました(異教神殿破壊令)。この命令により、当時1000以上はあったと思われるギリシャ神殿のすべてが消滅してしまいました

 ローマ帝国のキリスト教国教化とともに、多神教の神々をかたどったギリシャ彫刻は、破壊の対象とされてしまいました。そのため、彫刻の多くは残っていま

 吉田秀樹『古代ギリシャへの旅』(スタジオみらい, 2016)  p.26 

 

古代ローマでは、旧来の宗教は徹底的に破壊されてしまったのです。それなのに、日本には、今も「お寺(仏教)」と「神社(神道)」とが共存しています。なぜでしょう。 

[問題1]

 日本にはどうして「お寺」と「神社」が共存しているのでしょう。

ア.  中央の天皇・貴族や有名な僧侶たちが共存させたから。

イ.  各地方の豪族、一般市民が共存を望んだから。

ウ.  その他

 

 [典拠文献]

逵日出典(つじひでのり)『八幡神と神仏習合』  (講談社現代新書,2007)

  以下、「逵(2007)」と表記

黒塚信一郎『日本人の宗教、神と仏を読む』(かんき出版,2005)

   以下、「黒塚(2005)」と表記

 


 逵 日出典さんは『八幡神と神仏習合』(2007)の中で、神仏習合(日本で仏教と神道が共存していること)の理由を、以下のように述べています。

 

1 仏教は多神教。「諸天」という考えがあって、釈迦が仏教を開いてから

  インドの神々を取り入れて、仏法守護の役割を与えた。

幅広い神が必要。日本の神には、教義がなく、地域ごとに違ったから。

3 天変地異・疫病への祈祷が必要だった。

4 遣隋使から帰った僧たちが広げた。

5 朝廷も仏教を保護した。

「神仏習合」とは「日本固有の神の信仰」と「外来の仏教信仰」とを融合・調和するために唱えられた教説。『デジタル大辞泉』より。


[問題2]

  日本が「神仏習合」になったのは、上の5つの理由のうち、どれがいちばん大きかったでしょう。

 

修験者

巫女

仏僧


「天変地異・疫病・飢饉」が大問題、そんなときは「祈祷」が行われた

 600年代後半、天武天皇(?-686)が仏教を受容し、神仏同格を打ち出します。以後、国の大事(天変地異、疫病、飢饉)に際して、仏教と神道両方で祈祷するようになります。

 地方の豪族たちは、勢力を伸ばし拡大してくると、以前からの地域神だけでは人々を収められなくなり、一般的な教義を持つ仏教を信じるようになり、神社のよこに寺をたてます。それを神宮寺といいます。

 また遣隋使に伴った修行僧が帰ってきて、「道教の神仙思想」を広め、「高山・深山に居する風潮」が盛んになります。

 そうした「山岳修行した仏教徒」が修験者となって、全国を歩き回るようになります。特に、地方の豪族たちは、大事が起こったときに、修験者たちに祈祷を頼むようになります。

  密教が行う祈祷を「加持祈祷」といいます。加持祈祷に参加するのは3人です。黒塚(2005)には、次のように書かれています。

 

「密教僧、巫女、修験者の3人である。僧が読経し、修験者が加持祈祷する。護摩を焚き、真言を唱える。その呪力(じゅりょく)で物怪(もののけ)をおびき出し、巫女に転移させる」(p.134)

 

[問題3]

  空海(弘法大師)は、どうして有名になったのでしょう。

 ア. 特に、朝廷の中心的な立場で、仏教を広めた。

 イ.  特に、地方を行脚して、業績を残した。

 ウ.  アとイの両方。

wikipedia「空海」より


⚫︎空海(774-835)の活躍

 空海は、朝廷の中心的立場に立ちます。それだけでなく、全国の寺院をまとめます。

黒塚信一郎(2005)の第3章「弘法大師・空海の戦略」の表題は次の通りです。

1真言密教の台頭 

・いよいよ空海が登場してきた

  「修行を積めば生きたまま仏になれる(即身成仏)」

・真言密教が豪族の心をつかんだ

    「まさに空海は日本の仏教を一変させた」「華麗で秘密の加持祈祷という儀式」

  「その呪力の効験で人々を驚愕させた」

・密教が全国を覆った

  「嵯峨天皇から国家鎮護の教団として認められる」

  「真言密教を身につけなければ生き残れないほど、全国の寺々を席巻した」

・神宮寺統合という空海の戦略

「以後、全国各地の神宮寺は国家に公認された真言密教によって編成・統合され拡大していく」

 

⚫︎空海伝説は多い

 空海は「あちこちに行って井戸や池を作った」と言われます。遣唐使として学んできた土木技術を全国に広めたのでしょう。ただ「伝説」なので、どこまで空海本人が関わったかはわかりません。

(例)

四條畷市→照湧大井戸、 寝屋川市→湯屋が谷・田井・国松・打上 富田林市→滝谷不動明王寺市

東京・西新井大師、 香川県 満濃池の改修

 

[問題4]

 「修験者」は山に入って修行をする人のことです。空海の教えには「修行を積む」ことがあります。お遍路さんたちは「四国八十八か所」は、空海にゆかりのある寺を修験者の服装をして巡ります。

 そんな修験者は、空海が始めたのでしょうか。空海以前にもいたでしょうか。

ア.  空海が始めた。

イ.  空海以前にもいた。

 

⚫︎宇佐八幡宮から、全国に八幡宮が広がった

 修験者の最初は「役小角(えんのおづめ 634-701)」だと言われます。空海以前にも、修験者はいたのです。それでは、なぜ修験者は山にこもったのでしょう。

「修験者の行くところ、鉱山あり」と言われます。役小角も渡来人で、最初に開祖した奈良県吉野山にも、鉄の採掘場がありました。空海の建てた金剛峯寺も「金剛の峯の寺」と考えるのは深読みでしょうか。

 鉱山と関わる神仏で、宇佐神宮が大元と言ってもいいでしょう。宇佐神宮は、大分県にありますが、大分、福岡、山口地方は、朝鮮から渡ってきた新羅の人たちが住み着いて銅を掘り出し、精錬していたところです。古代に銭を作っていたのは「河内」以外には、「周防」と「長門」(共に現在は山口県)です。

 古代、宇佐神宮は力を持ちます。京都の南には出張所である「石清水八幡宮」もできます。769年には「宇佐八幡信託事件」が起きました。「道鏡という僧侶を天皇にしたら天下は太平になる」という託宣が宇佐八幡によって出されたというのです。当時権力を握っていた藤原氏は、なんとか道鏡を退けます。源頼朝が権力を握り、八幡宮は全国に広がります。

 修験者は、鉱山と関わりますが、治水や薬にも詳しい者もいて、江戸時代まで存在し続けました。明治維新になって、修験者は禁止され、3つの選択肢が与えられました。僧侶、神官、帰農です。

 

⚫︎祇園祭の最初

 京都の夏を彩る「祇園祭」は876年に始まりました。それは「八坂神社」の祭りです。ただ「祇園」とは「祇園精舎」のことで、北インドにあった寺院の名前です。それでは

[問題4]

 祇園祭は、もともと

ア.  仏教の祭り

イ.  神道の祭り

ウ.   仏教と神道の混ざった祭り

 祇園祭は神仏混合の祭りです。

 黒塚(2005)には、次のように書かれています。

 

 人々の不平不満を取り込めなかった朝廷は、人々の観心をかおうとしたのか、876年、疫病の蔓延を防ぐというインドの祇園精舎の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)を勧請し、京都八坂の祇園社に祭った」131ぺ

「牛頭天王」は、頭に牛の角を持っています。「牛の神」というのはインドのようです。それは「スサノオの命」の別の姿とも考えられました。つまり「仏」でもあり「神」でもあるのです。また「祇園社」というのは「比叡山延暦寺の末寺」です。明治維新の廃仏毀釈で「八坂神社」になりました。

 

 朝廷が「人々の不平不安を取り込めなかった」というのはどういうことでしょう。

 京の都では、疫病が流行ると人々も不満を爆発させました。疫病は霊の仕業と考え、祭り鎮める「御霊会(ごりょうえ)」が開かれました(863年から)。御霊会には、貴族も民衆も参加して行われましたが、なかなかふつうの御霊会では民衆の不平不満を取り込めませんでした。そこで民衆中心の祭りー祇園社の祭りーが始まったのです。

 さらに朝廷は、機内の神社から22社を選んで、御霊会を催すようになります(1039)。大阪の住吉大社もその中の一つです。

 

wikipedia 「祇園信仰」より


⚫︎日本人の心にはずっと「神」も「仏」も同居した

 右の写真は、和歌山県紀の川市粉河の「王子神社」と「小松院」です。2つ並んで建っています。そんな風景は、江戸時代まではふつうだったのです。


 日本人の心には、古代からずっと「神社」と「お寺」が共存していました。ひょっとしたら現代の日本人にも同様な思いがあるのかもしれません。

 そんな日本人の宗教のことを「日本教」という人もいます。英語にしたら「ジャパニズム」です。

 私は、そんな「日本教=ジャパニズム」という言葉がけっこう気に入っています。みなさんはいかがですか。

 

⚫︎(まとめ)日本での「神仏習合」の歴史年表

 

[中央での仏教]

 

538年、仏教伝来

 

・蘇我氏(仏教を) × 物部氏(固有の神を)

 

600年代

 

・聖徳太子(仏教で国作りを)

 

・天武天皇、仏教を受容

 

 

 

・遣隋使から留学僧の帰朝 

   「道教」の神仙思想→→

716年「僧尼令」

 

  官僧の山岳修行禁止

 

 

752年、聖武天皇、奈良の大仏

 国分寺、国分尼寺、奈良に「南都六宗」 

 

 空海、真言密教、日本中に

全国の僧侶「真言密教を身につけなければ生き残れない」黒塚p.97

 空海没後、加持祈祷の呪術的力ばかり偏重(p.133)

 

[地方での仏教]

 

 

 

 

 

→仏教徒の山岳修行

 「役小角(えんのおづめ)」

                        吉野山など

 修験者,全国へ、情報、お祓い

(密教、雑密)

 地方に「神宮寺」,豪族たち仏と

神とを両方祈る

 

 

 

 

[神道]

・太古から地域の神、多くは「山」

 海に浮かぶ「島」も

・「氏神」から地域の「神体山」に

 

 

 

 

 

720 『日本書紀』完成、記紀神話

 生まれる

←中央に「幣帛」を取りに行かず

 

怨霊

794平安京

 桓武天皇、弟の早良親王の怨霊

868 御霊会、牛頭天王を祇園社に

           祇園祭へ

以後、畿内22社で御霊会(祭り)

 

901菅原道真、太宰府に

 

935平将門、

921-1005安倍晴明

 (陰陽道、道教の影響)