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フランクリン「寛容」についての名演説

⚫︎フランクリンの演説(1787年9月)を翻訳しました。

ハワード・チャンドラー・ クリスティ(1872-1952) 『憲法署名の場面』1950立っているのはワシントン、前ですわっているのがフランクリンwikipedia "Scene at the Signing of the Constitution of the United States" より

 https://en.wikipedia.org/wiki/Scene_at_the_Signing_of_the_Constitution_of_the_United_States

 

 ベンジャミン・フランクリン(1706-790)は、アメリカ建国の父として知られている。お札に肖像も載っている。

 そんな彼は、70才のとき、起草委員の1人となり「アメリカ独立宣言」をまとめた。続いて大使としてフランスに赴き、独立を承認させた。さらに10年後、アメリカ合衆国ができるための最後の仕事にとりかかった。板倉聖宣は『フランクリン』(仮説社1996)で次のように書いている。

 それまで英国の植民地だった13州を1つの連邦国家にまとめるには、まず「連邦全体の憲法」を作成して新しい中央政府を樹立しなければなりません。ところが、これは大変な仕事でした。第1、連邦政府の議員の選び方からして大問題でした。

 2つの意見が対立してしまったのだ。

大きい州→「人口に比例して議員数を決めるべきだ」

小さい州→「議員数は人口によらず平等にすべきだ」

[問題]

 さてこの問題をフランクリンたちは、どう解決したのだろうか。

ア.  多数決で決めた。

イ.  とことん議論した。

ウ.  フランクリンが別の案を出した。

アメリカ独立の年表

 1773 12月16日 ボストン茶会事件

   1774 9月 第一回植民地会議

 1775 5月 第二回植民地会議

 1776 7月4日 「アメリカ独立宣言」

 177610月 フランクリン、フランス大使 

 1777 6月14日 星条旗を国旗とする。

   1778 2月 フランス、アメリカ独立承認

  アメリカ軍、勝利を続ける

 1782 9月 フランクリン、帰国

 1783 9月3日 パリ平和条約

            独立戦争終結 

   1787 5月25日 連邦憲法制定会議開催

 1787 9月17日 連邦憲法草案成立

  フランクリンの演説

1789 第1回大統領選、連邦議会 

         (フランス革命)


 フランクリンが考えたのは、全く新しい案であった。

⚫︎州によって、人口に比例して議員を出す→下院

⚫︎人口に関係なく各州から2人ずつ議員を出す→上院

 

 

板倉は次のように書いている。

 フランクリンはいつも、現実の問題に合わせて柔軟に考える習慣を身につけていました。そこで彼は、それまでの「国王のいない共和主義の国の議会は一院制に決まっている」という常識とは違った「2つの議会のある共和国」の制度も認めることができたのです。憲法会議に集まった人々の意見はこれで決定的な分裂をさけることができました。

⚫︎フランクリンが演説して、議員たちを説得する

  さて、いよいよ採決である。憲法に賛成して1つにまとまるのか、反対して分裂するのか。そんなとき81才のフランクリンが「セダン椅子」に乗って登場する。車椅子のない時代である。歩くのもままならなかったのであろうか。そして50人ほどの議員たちの前で演説を行う。

 その演説の邦訳は、しっかりしたものがなかった。そこで筆者が今回、全文を翻訳した。


⚫︎フランクリンの演説(1787年) 井藤伸比古訳

 憲法制定会議でのベンジャミン·フランクリンの演説(1787年)

ジェームズ·マディソンのノートから

 

 議長。正直申しまして、私は現在のところ、この憲法草案に全面的には賛同しておりません。

 しかし、議長。「将来も賛同できない」とは、確信が持てないでいるのであります。

 と申しますのは、私は長生きしてまいりました。そこで私は重要な問題に関して、よりよく調べ、よりくわしく考慮してみた結果、一度は「正しい」と考えたことも、そうでないことがわかって、自分の意見を変えざるを得ない経験をたびたびしてまいったからです。

それ故、年をとるに従って、〈他人の意見に関する自分の判断〉に疑うようになったのであります。

 実際、多くの人たちは、自分の信じる宗派が「絶対まちがいない」と思い「自分たちこそ、あらゆる真理を手にしている」と考えています。そして、他の人と意見が合わないときは、いつでも「自分は正しいのだ。あの人の考えは問題外だ」と考えます。

 

 プロテスタントに身をささげたあのステール(*1)は、法王の前でこう言いました。「2つの教会の教義の違い」はたった一つだけしかありません。それは、ローマカトリックは〈絶対確実〉であり、英国国教会は〈けっして間違えない〉だと。お互いに言い合っているだけなのです。

(笑)

 それと同じように、ほとんどの人は、自分と自分自身の信じる宗派は、絶対にまちがえないと信じています。  

 たとえば、あるフランス人女性は、姉とちょっとしたけんかをしたとき、ごく自然にこう申しました。

  お姉さん、どうして私たちはいつもけんかになるの。いつも正しいことをする人がいないことはわかっているけど。でも、私は常に正しいのよ。(Il n'y a que moi qui a toujours raison.)(笑)

 

 以上のような次第で、議長、私はこの憲法に賛成するものであります。たとえ欠点があるとしても、であります。

 いや、以上のような事情だけでなく、私たち[独立を求める人々]全体の政府が「私たちにとって必要だ」と考えているからであります。その政府がよく運営されるならば、人々に幸いをもたらすに違いないのです。

 その政府は、年月とともに、さらによく運営されるようになっていくだろうと私は確信しております。しかし、人々があまりにも不道徳になり、だれにもまっとうな政治ができなくて、専制政治にもどってしまいそうなときには、以前経験したように、私たちがその圧政を終わらせればいいのです。

 

 ところで私は、「さらに会議を重ねることで、もっとよい憲法をつくることができるか」ということについても、疑いを持っております。

 というのは、みなさんが「いろいろな人々の知恵を集めよう」とたくさんの人びとを集めれば、必ず「いろいろな人々の知恵」とともに、そうした人々のいだいている「その偏見、その激情、その誤った意見、その地方的な利害、その利己的な見解」もみな集めることになるからであります。そのような集まりから完璧なものが生まれると期待できましょうか。

 

 ですから、議長、私はこの国の仕組みがかくも完璧に近づいているのを知って、実は驚いているのであります。

 

 したがって、もしこれを憲法として合意できたなら、私たちの敵は、さぞかし驚くことでしょう。なぜなら、彼らは、私たちの協議会が混乱して、バベルの塔のように崩れ落ちることを、自信たっぷりに待っているからです。

 今は、分かれ目です。これから、他人ののどをかっ切るためだけに会合を続けるのか、そうでないのか、その分かれ目に私たちは立っているのです。

 私はこの憲法に賛成します。今後、これにまさる案が提案されるとは思えません。これが最善の案ではないと断言する自信もないのです。もちろん私にも異論があります。でもそれは全体の利益のために捨てることにしたのです。

 私は今まで、国外では、この憲法案についての異論を口にしたことはありません。つまり、私の異論は、この建物の壁の内側で生まれて、そして死んでいくことになるのです。

 もしみなさんが、この憲法草案に反対したとします。みなさんは、各州に戻って「会議で反対意見を述べたこと」を報告しなければならないでしょう。それは、国家をばらばらにしようとする人たちに力を与えることになるでしょう。

 

 そうなれば、私たちはさまざまな利点を失うでしょう。今まで得てきたすべての有益な権益を失い、当然の結果として私たちを支持してくれた諸外国からの信頼も失うでしょう。

 もし全会一致になるならば、なんとすばらしいことでしょう。それは心底の全会一致でもいいし、みかけだけの一致でもいいのです。結果は同じことですから。

 

 ほとんどすべての政府の力と効率性は、人々の意見に依存するものであり、それはまた、人々の幸福を確保するためにあります。しかし、そんな政府の総意というものは、もしそれが善良なものであるならば、政治家一人ひとりの知恵と誠実さから導き出された結果なのです。

 

 いま私が願うのは、 私たちがアメリカの一市民として 、自分自身のために、そして未来の世代のために、ここで全会一致で熱烈に憲法を支持することです。

 そして影響力が及ぶところはどこでも、私たちの力で未来を変えていこうではありませんか。もちろん、それは、私たちの討論と努力とが今後とも効率よくすすめられることを前提としているわけであります。

 

 まだ反対意見をもっている代議員がおられるとすれば、その一人ひとりが私と同じように考え、「自分の考えが常に正しいのか」と少しだけ疑ってみていただきたい。そして、この文書に名前を記すことを通して、憲法への支持を全会一致のものにしていただきたい。私はそう考えるものであります。

 

*1 フランクリンは、『フランクリン自伝』の中で、少年時代にスティールの文章に影響を受けた、と言っている。 リチャード・スティール(1672年– 1729年)  は、アイルランド人、小説家、政治家、そして新聞記者。

 

*2 「会場、笑」は、訳者が加えた。その笑いは、状況から間違いなく起きたと考える。

 

 

[解説・時代背景(井藤)]

 1776年、アメリカの13の植民地が「独立宣言」を出す。そして8年間の[イギリスとの独立戦争]を経て、1783年、アメリカの独立をイギリスが承認した。

 その後、アメリカ13州では、各地で暴動が絶えなかった。そこで「13州をまとめる憲法」を作ろうと、1787年5月に「憲法制定会議」が開かれた。

 その会議は4か月も続いた。各州ごとに意見が分かれてまとまらなかったのだ。それでも一つの国にまとまる努力を続け、1787年9月に憲法の最終案が出された。その案の最終採決の直前、このフランクリンの演説が、54人の代議員を訴えた。

 憲法案は、採決は55人中、16人が署名をしなかったものの、承認され、議員たちは各州に持ち帰った。そして2年間あまりの時間をかけて各州が批准された。そして1789年に第一回大統領選挙が行われ、アメリカ合衆国という一つの国が動き出したのだ。それはフランス革命直前のことだった。

 アメリカには、リンカーンの「人民の人民による人民のための政治」という有名な演説がある。が、このフランクリンの演説も、それに負けないくらい歴史的意味を持っている。

 

●フランクリンの演説は、[科学論]に基づく(板倉聖宣談, 2014年6月)

 フランクリンは「妥協しよう」と言ったのではありません。「科学論」で言ったのです。当時のふつうの人で、フランクリンほど科学に深入りした人はいません。

 それでは「科学」とは何でしょう。かんたんに言うと、次の言葉で表されます。

 

「科学,それは,大いなる空想をともなう仮説とともに生まれ,討論・実験を経て,大衆のものとなって,はじめて真理となる」「科学の碑」(新潟県魚沼市東養寺に1990年建立)の言葉。

 

 フランクリンは、「この憲法の内容は、まだ仮説の段階で本当のことはわかっていない。だが、これ以上の案は考えられない。だから、私たち全体の利益のために、ここでは全会一致で賛成しよう。そしてみんなで実験結果を見守ろう」と言ったのです。

 フランクリンは、演説の中で、こんなことを言っています。

 

 今は、分かれ目です。これから、他人ののどをかっ切るためだけに会合を続けるのか、そうでないのか、その分かれ目に私たちは立っているのです。‥‥

 もし私たちが各州に戻って「反対意見を投じた」を報告したとします。それをみなさんはしなければならません。その報告は、国家をバラバラにしようとする人たちに力を与えることになるでしょう。

 

 

 

 これは、まるで2年後のフランス革命の殺し合いを予言したような言葉です。フランクリンがいたからこそ、アメリカは、フランスのように「国内での殺し合い、憎み合い」にならなかったような気がするのですが、いかがでしょう。