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「実験」とは何か

⚫️「山下/板倉の脚気論争」をご存知ですか

 山下政三(1927-)は、板倉聖宣の『模倣の時代』における「森林太郎に対する批判」を烈火の如く怒っていて、右のような本を書いています。

 その本の中で、

「森林太郎の医学功績の中で特に賞賛すべき功績をあげる点」として次の2点を挙げている。

1.陸軍兵食試験

 ドイツ留学後の森が、うんちくをかたむけた、当時の栄養学の最尖端に位置するすばらしい試験。学術的な価値のきわめて高い卓越した内容。

 

2. 臨時脚気病調査会の創立と脚気の原因究明

 

とくに、1「陸軍兵食試験」について、山下と板倉との見解の相違を見ていく。

 

どうも、山下/板倉とで「実験観」が大きく違うような気がするのだ。

 

⚫️板倉聖宣は『模倣の時代』をどう自己評価するか

板倉山田正男編「ガリ本図書館」9号『たのしい授業』1987.9月号仮説社⚫︎

 『模倣の時代』を書きます。今度は「固有名詞の歴史」です。やったら〈優等生と劣等生との関係〉

とか、要するに「創造性」とか「実験」とか「仮説」とかいうものが全部出てきてします。俺の仕事が全部そこで総決算されている感じになる。

 

⚫️英語で「experiment/experience」とはどう違うか

 実験はexperiment

それは「仮説」を立て、それを試す「体験」

 経験はexperience

それは「行動」をして得るもの、人生や仕事で体験してきたこと、それを通して得た知識や技能

▶️「英語の違い図鑑」https://www.eigochigai.com/2020/10/experiment-experience.html

 英語版のwikipediaで「experiment」を引くと 

 実験とは、仮説を支持または反駁するため、あるいはこれまで試されていないものの有効性可能性を判断するために実行される手順です。(An experiment is a procedure carried out to support or refute a hypothesis, or determine the efficacy or likelihood of something previously untried.)

 

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「実験」

事物をあるがままに観察するのではなく,人工的に制御された一定条件下で選択され用意された対象に起る現象を観察あるいは測定すること

精選版 日本国語大辞典  自然科学で、一定の条件を設定し、そのもとで自然現象を起こさせ、それを観察または観測し、記録すること。

「研究」と「実験」

https://meaning-difference.com/?p=11622

「実験」は、ある条件のもとで何が起きるか観察をすることを言います。

 

秋山和義「科学教育おける観察・ 実験意義」『物理教育』1998.第46巻第5号 https://www.jstage.jst.go.jp/article/pesj/46/5/46_KJ00005897078/_pdf

実験とは,疑問または仮説的理論から導かれた予測を確かめる目的をもって,そのために構想計画された方法 で人為的に現象を起こさせ,事実でもって試験することである。

 

ジョン・ハーシェル(n(1792-1871) Herschel,John (1830: 2nd ed. 1851) A Preliminary discourse on the study of Natural Philosophy London Longman

 

A well imagined hypothesis, if it have been suggested by a fair inductive consideration of general laws, can hardly fail at least of enabling us to generalize a step farther, and group together several such laws under a more universal expression. 

よくイメージされた仮説は、もしそれが一般法則の正しい帰納的考察から導き出されたものならば、まちがいなく、一歩進んで一般化でき、より普遍的な視野で法則をいくつかグループ化できるのです。

But this is taking a very limited view of the value and importance of hypotheses: it may happen (and it has happened in the case of the undulatory doctrine of light) that such a weight of analogy and probability may become accumulated on the side of an hypothesis, that we are compelled to admit one of two things;

 しかし、これは「仮説の価値と重要性」について非常に限定された見方なのです。つまり、そのような「類似性と可能性の重み」が仮説に反映されることが起こるかもしれません(それは光の波動教義の場合にも起こった:波動か粒子か)。 そんな場合、私たちは 2 つのうち 1 つを認めないといけないのです。

 

either that it is an actual statement of what really passes in nature, or that the reality, whatever it be, must run so close a parallel with it,   as to admit of some mode of expression common to both, at least in so far as the phenomena actually known are concerned.

それは「自然界で実際に起ったことの表れ」か「実際に起こったこと」か、それが何であれ、2つの可能性を平行して考えないといけません。少なくとも、よく知られた現象に関しては。

 

Now, this is a very great step, not only for its own sake, as leading us to a high point in philosophical speculation, but for its applications;

それは非常に重要なステップです。哲学的に高みに到達するためだけでなく、それらを応用するためにも

 

because whatever conclusions we deduce from an hypothesis so supported must have at least a strong presumption in their favour: and we may be thus led to the trial of many curious experiments,

なぜなら仮説から導き出された結論が何であれ、そこには有力な推定が存在するのです。だからたくさんの好奇心を伴う実験が必要なのです。

and to the imagining of many useful and important contrivances, which we should never otherwise have thought of, and which, at all events, if verified in practice, are real additions to our stock of knowledge and to the arts of life.

そして「意味があって工夫された想像を積み重ねること(仮説実験すること)」です。他の方法は考えるべきではありません。いずれにしろ、それが実際に検証されれば、私たちの知識や生活の知恵は増えて、真の財産になるのです。

 

 

して、

仮説、私たちは 2 つのことのうちの 1 つを認めざるを得ないということです。 それは「自然界で実際に通過するものを実際に表現したものである」か、あるいは「現実と非常によく似ているに違いない」のいずれかである。 実際に知られている現象が対象となります。 

 さて、これは非常に偉大な一歩であり、それ自体が私たちを哲学的思索の高みに導くためだけでなく、その応用にとっても重要です。 なぜなら、このように支持された仮説から私たちが導き出す結論が何であれ、少なくとも彼らに有利な強い推定が含まれているはずだからです。

 そしてそのため、私たちは多くの興味深い実験の試行や、決してすべきではない多くの有用で重要な装置の想像に導かれるかもしれません。いずれにせよ、実際に検証されれば、私たちの知識と人生の芸術に真の追加が加えられます。