· 

大森・今村論争をどう評価するか

●あなたは大森・今村どちらを支持しますか

「大森・今村論争」を知っていますか。関東大震災が起こる13年前から2人は「東京に大地震が来るかどうか」の論争を続けた。

今村....今後50年位の中、激烈なる地震が起こるべきことを覚悟せよ。災害予防のことは1日もすべきにあらず。

大森....それは浮説だ。すこぶる人心を動揺させ、学理上の価値なき。

 結局、関東大震災が起き、その年に大森は死にます。

 あなたは2人の行動のうち、どちらを支持しますか。

ア.  今村

イ.  大森

ウ.  どちらも支持 / どちらとも言えない

(1868-1923)福井の下級武士の家庭に生まれる。帝国大学理科大学を主席で卒業。ヨーロッパ留学後、同大学の地震学教授に。今村の2年先を行く。

(1870-1940)鹿児島藩主の家庭に生まれる。大森同様、理科大学、大学院で地震学を学ぶ。大森の下で無給の助教授を30年間、勤める。その後教授、地震学のトップとなる。


●「歴史相撲の行司」になって考える。

 もしもあなたが「歴史行司」だったら、上の3つのどれに「軍配」を上げますか。

まずは、歴史的な事実を、石橋克彦『大地動乱の時代』岩波新書1994から見ていきましょう。 

(1) 右の年表を見てください。関東大震災前には多くの地震がありました。

(2) 大森は大震災後の死ぬ寸前、今村が見舞いに来たときに次のように告げました。

「今度の震災につき、自分は重大な責任を感じている」「けん責されてもしかたがない」「後は君が教授職を引き受けてほしい」

(やっと震災後になって、今村の主張を認めたのです)

 今村は、その後、防災意識を広めるために、小学校の教科書に2つの文章の掲載をすすめます。


●NHKテレビ『英雄たちの選択』の出演者どう判断したか。

 NHKで『英雄たちの選択 ー幻の地震予知、大森房吉と関東大震災』2023.3.8という番組が放映されました。出演者は、1磯田道史(歴史学者)を中心に、2鷺谷威(名古屋大、地震学者)、3上山明博(ノンフィクション作家、『地震学をつくった男・大森房吉』青土社,2018の著者、4関谷直也(東京大、防災研究者)の4人です。その4人は、「今村と対立した大森」についてどう主張しているでしょう。

ア.  大森の行動はよくなかった。責めてもいい。

イ.  大森の行動はしょうがなかった。責めるべきではない。

 

4関谷....不運だった。大震災のときに死んだ。→今までを反省して、研究を続けることができなかった。

2鷺谷....地震に関する全ての責任が大森にのしかかってしまった。プレッシャーがあった。

3上山....大森は「結果として自分がまちがっていた」、1人でも犠牲者を救いたかった

1磯田....(大森が)つらかっただろう。かわいそうですよ。誠実な人だけに。

  4人とも「大森の行動はしょうがなかった」と語っています。

 

●板倉聖宣は、何と言っているか

ア. 今村支持 イ. 大森支持  ウ. どちらも支持 / どちらとも言えない

『板倉式発想法講座』2011, ザウルス出版2012 に「日本の地震学と地震学者」という話があります。

引用します。

(板倉さんは「ウ」のような感じがするのですが、どうでしょう)

 今村明恒さんは、関東大震災の数年前に「もし東京に大地震があったら大変なことになる」ということを『太陽』という通俗雑誌に書きます。それが大問題になったんです。「そんなことを言ったら東京市民がパニックを起こすじゃないか」ということで、大森房吉がすごく叱って、その後ずっと人間関係が悪くなります。ぼくは長岡半太郎の伝記も調べていますが、長岡半太郎なんかは明らかに大森房吉を支持しています。それで今村さんは学会の中で孤立します。

 「今地震が起きたら大変だ」とい書いたりして今村さんがハッスルしたもんだから、大森房吉はすごく弾圧にかかって、最後になったら「しばらくは関東には地震はない」と言っちゃったんです。今村さんは「ある」と言った。それを打ち消すために大森房吉は「ない」と言ったんです。しかも、関東大震災が起こったとき、大森房吉は日本に居なかった。オーストラリアに出張中で、向こうで地震計で〈東京で地震があった〉ということを知ります。慌てて帰ってくるんですが、船の中で病気になります。これはあるいは、地震があったことも関連するかもしれません。横浜に着いたときにはすぐに入院して、数日のうちに亡くなったんです。

 だから、弔い合戦みたいな感じで、弾圧された今村明恒さんは、急に脚光を浴びることになります。そういう激しい事件があった

 

●長岡半太郎は今村を批判している

 当時の学会(学士院)では、長岡半太郎がボス的存在でした。板倉他著『長岡半太郎伝』朝日新聞社1973(p.617)から、1940.5.15『大阪毎日新聞』の記事「大阪の"地塊運動説"で学士院空前の大激論...長岡今村両博士の一騎討」の「長岡の発言」を引用します。

 

「今村君の報告が新聞に載ってから、大阪では今にも地震が襲うのではないかと恐怖と驚愕を起こしている。....私は君の研究が果たして科学的なりや否かについて疑問を持っているが、かくの如き研究の発表は社会におよぼす反響も大きく重大な社会問題であるから十分慎重に行われることを希望する」「研究態度の敬虔さと、及び放漫な結論の発表を控えられたい

 

⚫️今村は

●井藤の考え、ライバル関係をどうするか

 今までの流れを見ていると、私が教師時代に学校で何度か起こった状況を思い起こす。私が何かやろうとしても、上司が「じゃまをする」ということだ。(大阪のある現役教頭の話を聞いていても同様なことを思う)

 この今村・大森論争も、大森のライバル意識が「研究成果を社会に還元すること」を阻害したのではないか。どうして「仮説実験的」に研究ができないのか。互いに仮説実験的に研究し合えば良かったのではないか。大森は大震災直前に、どうして「予想変更」ができなかったのか。まるで脚気論争の森林太郎のようではないか。

 「結果主義」でいけば、あきらかに大森の行動は許されない(森林太郎と同様に)。関東大震災で10万人以上の死者を出したのだから。

 現在のいくつかの「学会」を見てきて、「封建性」「閉鎖性」を感じている。仮説実験授業研究会は、だれにでも平等に開かれていて、あまりにも理想的なので、そう思うのかもしれない。