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「仮説実験授業の原理」と「たのしい授業の思想」は、もともと同じ

●板倉の「仮説実験授業の原理」と「たのしい授業の思想」

 板倉聖宣のこんな言葉がある。

〈たのしい授業〉〈仮説実験授業〉とは、もともと一つのものの二つの面のような関係にある

仮説実験授業が提唱される前には、〈たのしい授業〉という考え方はなかった。

「たのしい授業と仮説実験授業」『たのしい授業』1987.3月号、『たのしい授業の思想』仮説社,1988にも

 

〈仮説実験授業の原理〉「たのしい授業の思想」とは同じ、1つか2つの命題をさし入れたり、さし入れなかったりするだけでいい

仮説実験的な教育原理の確立をめざして」犬塚清和編「板倉聖宣アーカイブ17」『たのしい授業』2019.1月号

本当に、この2つはもともと同じものなのだろうか。


●「たのしい授業」↓         「仮説実験授業」↓

「べっこうあめ」などの物作り

キミ子方式など美術、音楽、 朝の連続小説

マッキーノなどドリル

科学上の最も基礎的な概念や原理・原則を教える。

授業書を使う。


●「たのしい授業の思想」↓  「仮説実験授業の原理↓

・押しつけを排除する。

・評価は子どもがする。

💮「楽しい/わかる」  ×「楽しくない/わかる」

△「楽しい/わからない」

・科学的認識は、仮説実験的認識である。

・科学的認識は、社会的な認識である。


●「哲学=知を愛する/新しいことを知る」→楽しい                 ...................................これが出発点

 板倉(2019)仮説実験的な教育原理の確立をめざして」より

 

 ところで、今までの議論だと「たのしさ」という言葉が入っていません。〈たのしい授業〉というのは〈科学的認識〉とどういう関係にあるかというと、おそらく「科学的認識を得るのはの人間にとって楽しいことだ」というような、もう一つの原理があってはじめて〈たのしい授業の思想〉としてドッキングするんじゃないかと思います。……人間というのは、子どもも大人もみんな哲学者なんだ。哲学者というのは〈知を愛する〉んだ。新しいことを知るのが好きなんだーーそれが出発点です。そういう意味で「たのしい授業」の体系を作っていこうというわけです。  (49ぺ)

 

 じつは「一番にもってっくる原理は違っても、結果は同じだ」ということがありうる。

量子力学、「波動的なもの」「マトリックス(とびとびを強調)」

 

「仮説実験授業の原理」「たのしい授業の原理」

 ぼくには「これは同じではないか」という感じがします。そこに1つか2つの命題をさし入れたり、さし入れなかったりするだけでいいのではないか。(50ぺ)

● 板倉さん18才の「幸福論」1948年

 板倉さんの「幸福論」は、ベンサムの『功利論』(1789)がベースになっている。その本には「原子」「エピクロス」という言葉が出てくる。つまり、板倉さんもベンサムも「原子論的幸福論」と言っていいだろう。

 以下は「幸福論」からの言葉である。

 

3快楽・苦痛の種類について

(1)感覚の快苦 (2)秩序と親和の快苦(統一)   (3)好奇心の欲望  (4)感情移入による快苦(共感) 

(5)反感による快苦   (6)気休め(習慣)の快 (7)満足と不満足 (8)想像と期待の快苦 (9)優越感の快苦  

(10)絶対的自己的自己賞賛の喜び

 

 この10段階は、マズロー(1908-1970,アメリカの心理学者)の「欲求5段階説」に似ています。たとえば「いじめ」は低い段階の欲求で「高い段階に上がれば、より楽しい欲求を味わえる」というものです。

 仮説実験授業の自己評価で「5たいへん楽しかった」が選べれば、「(10)絶対的自己的自己賞賛の喜び」を味わえているということかもしれません。

●「絶対的自己」的「自己賞賛」と「ルクレチウスの神」

●●ルクレチウスの語る「神」

 それは原子論者ルクレチウス(BC99頃-BC55)の語る神である。ルクレチウスは『宇宙を動かすものアトム』を書いて、エピクロスの原子論を広めた人である。そんな彼は「神はいない」とは言っていない。

 

 神々は、われわれの世界から離れ、はるか彼方で「永遠の生」を「最高の平安」とともに享受する。いかなる苦痛も危険もなく自分の力だけで世界を動かし、われわれを必要とせず、なだめられることも怒りに染まることもない(ルクレチウス『宇宙を動かすものアトム』2章646-651)

 

 つまり、「[宇宙を動かすもの]が[神=原子]だ」と言っているのである。そんな神は、何もせずに私たちを見守っているだけなのである。

 

しかし、そんなルクレチウスの一句が、古代ローマで「原子論が抹殺された」原因となった。

 小池澄夫,瀬口昌久著『ルクレティウス[事物の本性について]愉しや、嵐の海に』(2020, 岩波書店)は、次のように書いている(pp.119-120)。

 ラクランティウス(皇帝の御用神学者)がエピクロスの言葉として引用するのは、ほかの箇所でもそうだが、実はルクレティウスの詩句(上の挙げた箇所)である。それが、エピクロスの言葉として引用されている。

●●板倉の語る「絶対的自己」

 板倉さんは完全に「無神論」である。ルクレチウスが「神=宇宙のはるか彼方にいて世界を動かしている(原子)」と言ったものを、自分の中にある「絶対的自己」と呼んでいる。

 その自分の「絶対的自己」が賞賛するようにしていくことが、「最高の幸福」である。

●「たのしい授業の思想」も「仮説実験授業の原理」も、

  「絶対的自己的自己賞賛」ができるようなことをすること。そして幸福になること。

●(おまけ)インド映画『PK』が語る神も同じ

●宇宙人が驚いた、なぜ地球にはいろいろな宗教があるのだ

  インド映画『PK』は、こんなあらすじだ。

 宇宙人PKはインドに不時着し「地球ではいろいろな宗教があり、それぞれが対立していること」に驚く。自爆テロさえある。

 そんな彼PKは、ある宗教家と対座し、次のように主張する。

 この惑星=地球は非常に小さい。宇宙には、もっと巨大な惑星がいっぱいある。

 それなのに、あなたは小さな惑星で、小さな都市で、小さな部屋に座って、自分の神の話をしている。

 私の言う「神」は、宇宙すべてを動かしている。あなたの神と私の神とでどちらが本物の神なのか。

 私は、このPKが語る「神」の話を「どこかで聞いたことがある」と思った。ルクレチウスだ。