⚫︎「科学の考え方」ってなんでしょう。
NHK『考えるカラス』は
「観察」「仮説」「実験」「考察」
という言葉から、番組が始まります。
板倉聖宣は、新潟県にある「科学の碑」に
科学、それは大いなる空想を伴う「仮説」とともに生まれ、「討論」「実験」を経て、「大衆」のものとなって、はじめて真理となる..................という言葉が掲げました。
どっちが正しいのでしょう?
⚫︎「なぜ人は陰謀論にハマるのか? 」という番組で考えてみました
NHK「ダークサイドミステリー」2021年9月2日放送
「Qアノン」を知っていますか。
アメリカ大統領選挙2020のとき、トランプ支持者の中で生まれた陰謀論です。
「世界規模の秘密結社があって、それを打ち負かすことができるのはトランプだけだ」
というのです。
番組の中では、陰謀論が起きるのには4段階あると言っています。
1 社会に不思議、理不尽なことが起きる。「なぜ...」
2 定説に対して疑問を感じる。「きっと....」
3 「巨大な組織の陰謀」で筋が通る。「そうか....」
4 同じような怪しい情報が集まる。 「やっぱり...」
出演者は次のようにコメントします。
1「わからないもの」は気になる。
2「わからないもの」に耐えるには、ストレスがかかる。
3 ネットで探す。「合点がいく」と気持ちがいい。うそか本当か、わからなくなる。
4 情報社会は、自分から情報を選択する。そういう気持ちがあれば、そういう情報が集まる。
⚫︎私の感想
「ワクチンは危険だから打たない」も似たような構造があるのではないか。というのは、私の姉がそうだったのです。ワクチンに疑念を抱いた姉は、ネットである医師の「ワクチンは危ない」を見つけます。「なるほど」と思って、京都まで講演を聞きにいきました。「打たない」と言い張っていたのですが、最終的には子どもたちに説得されて打ちました。
「オーム真理教」に身を投じたエリートたちも同様だったのではないか。「観察」しすぎ、「勉強」しすぎで、1つの答えを見つけたのではないか。
『ぼくらはガリレオ』に登場する4人です。
⚫︎結論
こうした「陰謀論」の場合は、「観察」して考えすぎるのは、怖いのではないか。
「わからない」ときは「わからない」ままでいい。無理にわかろうとしない方がいい。
やはり板倉さんが言うように「仮説」が最初。つまり「仮説」が立つまで深く考えない。深く調べない。ただし「この場合」です。一般的なことは(今のところ)よくわかりません。
⚫︎ボクの武器は「わからない」
友人と月に1回「数学のゼミ」をやっています。
ぼくは、えみちゃんのように「わからない」を連発しています。きっと永遠にわからないでしょう。それでもいいです。
いや、その方がいいのです。
最後に板倉聖宣『日本史再発見 理系の視点から』(朝日新聞社,1993)より引用します。
「実証的」ということと「科学的」ということとは違う。もともとすべての科学は実証的なのである。事実に根ざさない学問なんか、原理的にはありえない。しかし、科学というものは、その「事実に基づく」段階から一歩踏み出したところに成立しているのである。
たとえば、地球説や地動説、原子論といったものを考えてみるといい。そんなものは、事実に基づいて出てきたものではない。むしろ、科学というものは、その「直接的な事実を無視した大いなる空想、仮説がもとになって生み出された」と言ったほうがいいほどである。
歴史学者は、知られている事実を次々と提示して、歴史の話を構成する。そのこと自体には問題がないように思われるかもしれない。しかしじつは、その「知られている事実を次々に提示すること」が、科学好きの私のようなものには我慢がならないのである。
こういうと、「科学の話だって、知られている事実を提示することから出発している」と思う人がいるかもしれない。しかし、じつはそうではないのである。科学の話は「知っている事実」からではなく、「知りたい事実」から出発する。科学好きな人々は、そこに魅力を感じるのである。 (中略)
歴史学者はいつも、「たまたま知られた事実」をもとにして研究する習慣が身についてしまったために、「どんな事実が知るに値する事実なのか」ということを考える習慣がほとんどないことによるのだろう。 (p.4)
⚫︎「科学の考え方」とは?
今回は「陰謀論」の話でしたが、一般的に「科学の考え方」とは、どちらなのでしょう。
NHK『考えるカラス』では、「観察ー仮説ー実験ー考察」
板倉の科学の碑では 「仮説ー討論ー実験ー大衆」
さらに、考えていきたいです。