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そうだ、河内に行こう(大阪、河内入門)

⚫︎授業プラン〈河内入門 ー河内から日本全体を見ようー〉

⚫︎なぜ河内は長いか

[質問1]

 あなたは「河内(かわち)」というと、どんなことを知っていますか。何を思い浮かべますか。

「河内」を全国的に有名にした歌が2つあります。1つは「鉄砲節河内音頭」です。鉄砲光三郎によってレコード化され、1961年ミイロンセラーになります。もつ1つが「河内のオッサンの唄」です。1976年、ミス花子(男性)によってレコード化され、映画化もされます。

  大阪府は、「河内」「和泉」「摂津」という3つの国(律令制でできた国:701年)から成ります。

 その中で「河内」は非常に長い国です。全国的に見ても、こんなに長い国はありません。

 

[問題1]

「河内」はどうして長いのでしょう。

 ア. 「南北に続く道」を中心に発展した。

 イ. 「南北に流れる川」を中心に発展した。

 ウ.   河内の多くが水の底で、地面がなかった。

                                       (→「地図1」)


 右は大昔の河内です。今の「北河内」「中河内」は、ほとんど陸地がありませんでした。                       (→「地図2」)

 

[問題2]

「河内湖」が「河内」という土地に変えたのはだれでしょう。

ある人は、「古墳を作った土木技術を持った人々が、湖の干拓をした」と言っています。これは事実だと思いますか。

ア. 古墳を作った土木技術を持った人々が、湖を土地に変えた。

イ. 古墳を作った人々が湖を土地に変えたわけではない。

大阪商工会議所「水都大阪」より  https://www.suito-osaka.jp/history/history_2.html


 古代の大阪の地形は特別でした。何度も洪水が起きました。

 大規模な治水工事が続けられ、河内湖は陸地に変わりました。

 そんな土木工事ができる優秀な人たちが、大和・河内・和泉に、巨大古墳を作りました。

森浩一さんはそんな様子を書いています。→

「37基の大規模古墳」の位置(地図3)

「wikipeda」より

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の大規模古墳一覧

森浩一さん(同志社大教授)は次のように書いています。

 大阪は全国でも特殊な地理的条件にあった。近畿地方一円の大量の水が淀川 や大和川を通じて河内湖に流れ込み,その出口は上町台地とそのさきにのびる砂州によってさえぎられてせまく,河内湖の出口は川から運ばれる土砂で浅く狭くなっていく。そして弥生時代の瓜生堂集落の水没にあるように,しばしば 大被害をうける。

 こうした条件のなかで弥生時代から古墳時代前期にかけて,河内湖をとりまく大集落の周辺には各種の大溝が掘削されてい る。つまり,この地域では土木工事が他にくら べてより発達し, また, それを発達させる必要 性もあったのである。これが大阪の特徴であった。

 5世紀頃に巨大古墳ができ上がってきた背景としては,このような土木工事のすぐれた技術を見逃すことができない。そして単なる灌漑の必要であれば一本の川筋だけで王権は誕生するが,河内の場合は湖の周辺という広い地域で共通の問題が生じている。そうするとたいへんに広い地域を対象にした王権,または政治的結合体が発生する可能性がある

「遺跡からみた大阪平野と人間の歴史 国府遺跡から古墳の終末まで」『アーバンクボタ 特集,淀川と大阪・河内平野』1978, 株式会社クボタ  https://www.kubota.co.jp/siryou/pr/urban/pdf/16/pdf/16_2.pdf 


 「大和朝廷」によって、全国は統一されます。その背景には、優秀な治水技術者(「古墳」と「河内湖の陸地」を作った)がたくさんいたことがあることでしょう。

 

 

⚫︎大阪の地層

 「河内」というくぼんだ土地は、どうしてできたのでしょう。地質学者は、次のように説明しています。

 大阪の地面は、南東から「フィリピン海プレート」北東から「ユーラシアプレート」が押し合っている。そのへこみの部分が「河内(盆地)」である。

 大阪市中心部は「上町(うえまち)台地」と呼ばれて、大阪城とか難波宮跡とかがある。


「六甲山の生い立ち」六甲砂防事務所より https://www.kkr.mlit.go.jp/rokko/rokko/history.php

⚫︎河内に小都市ができるのは、いつ?

 河内は、大昔には河内湖があり地面がありませんでした。その地域に都市ができるのはいつ頃でしょう。

[問題3]

 北河内は、もともと湿地帯でした。中井(1963)によると、1600年代末に大阪地区(摂津・河内・泉3国)に小都市が13ありました。その13の中に「北河内の小都市」はあるでしょうか。

ア.  ある

イ.  ない

 

 右の地図を見てください。そこには13の小都市が書かれています。(地図4→)

平野郷・八尾・久宝寺・柏原・国府・古市・

富田林・大ケ塚・泉佐野・貝塚・西宮・富田

 

 北河内は「小都市」は1つもありません。中河内も、南端の「八尾」「久宝寺」だけが記されています。やはり「北河内」「中河内」は、ベタベタの土地だったのです。13の中で、いちばん大きかったのは「平野郷」です。海運、陸運の要所で、中世から堺とならんで濠(ほり)で囲まれた都市でした。

 河内に大きな変化を起こしたのは、「大和川の川替え」でした。

 河内には、南から北に向かう川がたくさんありました。それを1つにまとめて大阪湾に流れる川、大和川を作ったのです。      

 

「治水のあゆみ/大阪平野の古地図」大阪府より作成

https://www.pref.osaka.lg.jp/nishiosaka/history/hist-oldmap2.html

「平野郷」は、河内、和泉、摂津の3国のちょうど境目にあります。摂津の国に入ります。


⚫︎大和川の川替え(1708年完了)

[質問2]

 大和川の川替えをして、どんな変化が起こったでしょう。

 

 「北河内」「中河内」は、江戸時代もずっと湿地帯で、洪水に悩みました。

 1704年に大和川の川替えが始まります。北に向かって流れていた多くの川の流れが1本の「大和川」となって堺で注ぐようになったのです。それは1708年に終わりました。

 大和川が境に流れ込むようになって、堺には困ったことが起きました。

 大量の土砂で、海が埋まってしまい、堺の港は使えなくなってしまったのです。

 古代は「大山古墳 (仁徳天皇陵)」も海から見えました。それは渡来人たちに「ここに巨大な権力がある」と見せつけるものだった、と研究者は言っています。

青木敬准(国学院大学教授)「東アジアと連動していた百舌鳥・古市古墳群」 https://www.kokugakuin.ac.jp/article/126625

 明石海峡にも巨大な「五色塚古墳」があります。それも同様に海からよく見えたことでしょう。

↑大阪湾環境データベース」をもとに作成

http://kouwan.pa.kkr.mlit.go.jp/kankyo-db/intro/detail/rekishi/detail_p07.aspx

大和川河口の変遷 (↑地図8)

「中甚兵衛 なにわ大坂を作った百人」『関西・大阪21世紀協会』https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/030.html

「大和川の歴史」柏原市のホームページより      (→「地図5」)

http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2015072600070/?doc_id=3528

 川替えの後、新田がたくさん作られました。

↑「大和川付替え300周年、ひと・ゆめ・未来・大和川」より(地図7) 

https://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/about/yamato300/tukekae/tukekae3.html

 

 

[問題4]

 北河内・中河内には、新田がたくさん作られました。そこでは、どんな作物がいちばんたくさん作られたでしょう。

ア.  稲

イ.  木綿

ウ.  菜種

 

 


 川替えでできた土地は、砂地のため、米作りに適さないので。綿が多く栽培されました。

 右のグラフを見てください。「平野郷町」では綿の栽培が中心です。他の地域も同様です。(平野郷は、今の大阪市平野区にあり、播磨の国の端っこです)「大和川の歴史」参照 

https://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/about/yamato300/tukekae/tukekae3.html

 

『新修大阪市史』第4巻1990, p.271 より作成。「平野郷」は摂津に入るが河内との境にある。水運、陸運の要所で、古くから栄えた。境と同様に町は堀で囲まれている。(グラフ1)


 ところが、大阪全体の綿の生産は、幕末になるにつれて減少していきます。大阪以外の産地(三河・尾張・遠江など)の生産が増えたためです。

 それでは、河内で木綿が作られるようになったのは川替え以後でしょうか。川替え前から作られていたでしょうか。

岡光夫(1976)「農村の変貌と在郷商人」『岩波講座 日本歴史12』 近世4 岩波書店 p.48 より作成(グラフ2)


[問題5]

 河内の木綿作りは、大和川の川替え以後のことでしょうか。それとも川替え以前から行われていたでしょうか。

[予想]

.  大和川の川替え以後のこと。

.  川替え以前から行われていた。

 

 ここに「1705年, 平野郷町商工業者業種別表」という川替え直前のデータがあります。平野郷は、河内に隣接する都市で水運、陸運の要所で,河内の産物はここに集められていました。世帯数2543(人口9273)で、その半数1212戸が商工業者です。

 平野郷は、水運、陸運の要所で、戦国時代には堺と並ぶ自治都市でした。世帯数2543戸(人口9273人)で、その半数1212戸が商工業者でした。

 その中で、木綿に関する職業は、どのくらいあるでしょう(川替え直前の1705年です)。

 

⚫︎綿作りは、川替え(1807)以前からだった。

   下の「表1」を見てください。どんな職業が多いでしょうか。(↓表1)

 1705の平野郷は、木綿に関連した商売は「41%を越える」と中井(1963)は書いています。そこには、油屋、古手商(古着屋)、紺屋だけでなく、綿作の肥料のための糟干鰯屋、運送に関連する荷造り、縄むしろ、馬借も入れているのです。「油」屋が28軒あります。その油は、綿の実から作った「綿実油」です。

 上の「表1」をグラフにしてみました。「色」が合わせてあります。   

↓(表2)

(↑グラフ2)

 綿の生産は、大和川の川替え以前からでした。「地図4」で示した13の小都市の周辺では綿の生産が行われていました。実は、河内の綿作りは戦国時代後期に始まっています。江戸時代前半にはピークに達し、川替え以後、減り続けていくのです。

 

 

⚫︎綿の生産が減り続けて、どうしたか。

 綿の生産が減り続けたのですが、人々は、どうしたでしょう。

右のグラフは「十八条村(大坂淀川区、新大阪の近く)」のある作物の生産石高を表したものです。1700年台後半から石高が増えています。

 


 これは「菜種」です。

 下のグラフは、大阪から各地に運ばれた商品の内訳(金額)です。

 大阪No.1の名産品は「油」です。江戸に運ばれました。綿から作った「綿実油」と、菜種から作った「菜種油」が中心でした。

 

中井信彦「近世都市の発展」『岩波講座 日本歴史』11 1963より p.80

 


[問題7]

 油は何に使ったのでしょう。

ア.  天ぷらとかの料理に使った。

イ.  燃やして明かりにした。

油の話

 油は、明かりに使われました。右は『源氏物語絵巻』からです。部屋の真ん中に「灯の台」があります。鎌倉時代から「大山崎の油座」がありました。宇佐八幡の油絞りの技術が岩清水八幡に伝わって、えごま油の製造販売を独占したのです。油は、主に京都に運ばれました。

 豊臣秀吉の時代になり、油の職人は大阪城下に移住されられました。

『源氏物語絵巻 横笛』より


 

 徳川の世になり「菜種油」とその技術がヨーロッパから持ち込まれます。キリシタン禁制から、菜種油への取り締まりもありました。

 1600年代も後半になってくると、「遠里小野(おりおの)」が油絞りの中心になります。平野郷から大和川を降って30km、住吉大社の門前です。くさびを使った「しめ木」を、遠里小野の人が発明するのです。そして菜種油が中心になります。菜種油は、すすが出ないので高級品でした。商品作物として大坂の農家を潤わせました。(板倉聖宣2002「日本における精油技術の歴史」『板倉式発想法講座2002/2003』ザウルス出版2003 pp.215-241)

       「遠里小野のしめ木」


 菜種は、もともと秋の彼岸までに種を直まきをして作られいました。それが1700年代の前半に、前もって種をまき11月頃、移植して作られるようになりました。米の裏作として冬季に作ることができるようになったのです。

 右のグラフは、2つの時期の菜種栽培の割合です。「農家の裏作として適当なものであったため、農民も次第に増産するようになった」『大阪府史』6巻,1985, p.109)のです(場所は違っても増加傾向は同様)。

『大阪府史』第6巻,1985、p.108より ↓


⚫︎明るい時代が来た

 そんな油のおかげで、夜でも活動ができるようになってきます。大坂では、「元禄文化」が花開きます。1600年代後半から1700年代前半のことです。

 

 

 その後江戸で、町人文化「化政文化」が花開きます。蘭学、浮世絵、落語などが広がり、滑稽本など出版も活発になります。

 どちらもその背景に「大坂の油」があり、夜でも活動が可能になったことがありそうです


⚫︎街道沿いを明るくした「常夜灯」の登場

 「常夜灯」を見たことがありますか。右がそれです。石でできていて、油 (安い魚油が使われた) の明かりで、夜の街道沿いを照らしていました。

 岡山大学では、馬場俊介さんを中心に、全国の97の常夜灯について調べています。

 それをグラフにすると、上のようになります。なんとそのすべてが江戸後半に作られました。特に、1800年代前半に60もの常夜灯が作られているのです。江戸に「菜種油」がたくさん送られた時期と重なります。

 江戸時代の庶民は、夜でも少しずつ安心して活動できるようになったのです。

 

愛知県豊田市足助町の常夜灯(1799)


⚫︎大坂に、一面の菜の花

菜の花や 月は東に 日は西に 

 --与謝蕪村,1774年, 48才の作品

 この句は、蕪村が「六甲山に行ったときに、読んだ」と言われています。一面の菜の花畑が、六甲山の麓にありました。

 1700年代後半から、兵庫灘目(なだめ, 神戸市,芦屋市,西宮市)は、大坂周辺の最大の絞油業地帯でした(『新修大阪市史』第6巻 p.320)。清酒だけでなく、油もこの地域の特産品だったのです。

 与謝蕪村(1716-1784)は、大坂の生まれ(今の大阪市豊島区)で、晩年は京都に住んでいました。蕪村には、菜の花の句がたくさんあります。その中からです。

菜の花や 河内和泉へ 小商(こあきない)

 蕪村は、何を売りにいったのでしょうか。あなたは何だと思いますか。


 

 いかがだったでしょう。ここに掲げた内容は、元はといえば、板倉さんが研究して、研究途中になっていることです。どなたか大阪の人に引き継いでもらえるとうれしいです。


(おまけ)

 明治維新を迎えて、木綿はどうなったでしょう。実は、海外から品質の良い木綿が入ってきて、国内の綿の栽培は減り続けます。そんな中、平野郷には「平野紡績」ができます。1888(明治20)年のことでした。その後「大日本紡績」と合併し、「日本紡績」「ユニチカ」と名を変え、日本の産業を支えます。1969(昭和44)年に工場は、解体されました。

 菜種は? 電灯の普及でランプの時代も終わりました。

 

(お礼)

 「なわてサークル」の皆さんには、たいへんお世話になりました。特に、西村さん、室元さん、水口さん、雁金さんには、細かいところまでご意見をいただきました。また北海道の林秀明さんには、「地元でない」意見(一般的な意見)をたくさんいただきました。感謝しております。