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そうだ 河内、行こう

⚫︎「河内」は怖い所だと思っていた。

 愛知県に住む私は、テレビで得た情報から、勝手に「河内」のイメージを作っていました。あなたは、下の2つの唄を知っていますか。

河内音頭大ヒット

1961(昭和36)年

エ-- さては一座の皆様へ

ちょいと出ました私は

御見掛け通りの若輩で

ヨーホーホーイホイ

(ハァーイヤコラセードッコイセー)

河内のオッサンの唄

1976(昭和51)年

おー、よう来たのワレ

まあ上がって 行かんかいワレ

ビールでも飲んで行かんかいワレ

久しぶりやんけワレ

何しとったんどワレ

早よ上がらんけ オンドレ

 


 私は、四條畷小学校に行くようになって、イメージがくずれました。「河内」の人は、とても上品だったのです。山本さん、西村さんなど。

 

⚫︎そうだ「河内」行こう。でも「河内」はどこだ?

 最近、大阪に行く機会が増えました。でも不思議でならないのは、どうして河内は長いのでしょう。枚方も、四條畷も、富田林も、みんな河内です。

 古代の68の「くに」の中で特別に長いのです。


⚫︎「かわ」の「なか」だから「河内」

  古代の大阪には「河内湖」がありました。大和川の河口は、アミのようになった三角州でした。

 大化の改新の後、難波津の港ができ、難波宮もできました。

 堺にある仁徳天皇陵も、海から来た渡来人が、まずびっくりする雄大なモニュメントでした。

 今の大阪平野は、ベタベタ状態だったのです。江戸時代の1704年に大和川の川替えが始まり1708年には終わります。

「大和川の歴史」柏原市のホームページより http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2015072600070/?doc_id=3528

 

    

   「大和川付替え300周年、ひと・ゆめ・未来・大和川」より        →

 https://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/about/yamato300/tukekae/tukekae3.html

 

 川替えの後、新田がたくさん作られました。四條畷の近くに「深野池」がありますが、それは昔の名残です。


⚫︎中世に「平野郷」は栄えた。

 平野郷は、堺と並んで、中世の都市国家です。「1705年, 平野郷町商工業者業種別表」というデータがあります。当時の平野郷は、世帯数2543戸(人口9273人)で、その半数1212戸が商工業者でした。

問題1

どんな職業が多かったでしょう(川替えが終わっていないときです)。

[予想]

ア.  木綿

イ. 木綿以外

 

「大阪府 治水のあゆみ」より https://www.pref.osaka.lg.jp/nishiosaka/history/hist-oldmap2.html

下の数値は、中井信彦(1963)「近世都市の発展」『岩波講座 

日本歴史』11 岩波書店より。


下の表を見てください。どんな職業が多いですか。

上の表をグラフにしてみました。「色」が合わせてあります。

 大和川の川替え以前から、河内は木綿の産地だったのです。中井(1963)によると、1600年代末に摂河泉3国における小都市に次があります。

平野郷・八尾・久宝寺・柏原・国府・古市・富田林・大ケ塚・泉佐野・貝塚・西宮・富田

 そこでは広く綿業が行われていました。

問題2

「油」屋が28軒あります。なんの油でしょう。

[予想]

ア.   綿実油

イ. 菜種油

ウ.   両方、五分五分

 中井(1963)は「油屋ー綿実を原料とする油とみて」としています。さらに、1705の平野郷は、木綿に関連した商売は「41%を越える」と書いています。それは上の表で赤字すべてを累計したからです。油屋、古手商(古着屋)、紺屋だけでなく、綿作の肥料のための糟干鰯屋、運送に関連する荷造り、縄むしろ、馬借も加えているのです。

[問題3]

 綿実油や菜種油はどこで作っていたでしょう。

ア.  どこか1か所

イ.  多くの場所

  徳川時代以前は「大山崎の油座」がありました。宇佐八幡の油絞りの技術が岩清水八幡に伝わって、えごま油の製造販売を独占したのです。

 徳川の世になり、「遠里小野(おりおの)」が油絞りの中心になります。平野郷から大和川を降って30km、住吉大社の門前です。くさびを使った「しめ木」を、遠里小野の人が発明するのです。そして菜種油が中心になります。(板倉聖宣2002「日本における精油技術の歴史」『板倉式発想法講座2002/2003』ザウルス出版2003 pp.215-241)

 

           大山崎の離宮八幡宮の「油祖像」→

「遠里小野のしめ木」


[問題4]

 河内木綿の生産は、大和川の川替え(1708)以降、どうなるでしょう。

ア.  増加する  イ.  減少する ウ.  変わらない

 

 右のグラフを見てください。大阪から江戸に運ばれた木綿の量は、1724年以降、減り続けています。それは、新しい木綿産地が数々と台頭してきたからです。

[問題5]

 河内は、川替え後、新田がたくさんできています。木綿に変わって、何を生産したのでしょう。

ア.  米

イ.  菜種

ウ.  野菜、豆類

 

岡光夫(1976)「農村の変貌と在郷商人」『岩波講座 日本歴史12』 近世4 岩波書店 p.48


 右のグラフを見てください。 右のグラフを見てください。大阪から出ていった商品の内訳(金額)です。米の数値がないので、なんともいえないところもありますが、大阪No.1の名産品は「油」です。特に、江戸に運ばれました。菜種油と綿実油を混ぜて灯油ができました。

中井信彦「近世都市の発展」『岩波講座 日本歴史』11 1963より p.80


 いかがだったでしょう。ここに掲げた内容は、元はといえば、板倉さんが研究して、研究途中になってしまっていることです。どなたか大阪の人に、後を引き継いでもらえるとうれしいです。

(おまけ)

菜の花や 月は東に 日は西に 与謝蕪村,1774年, 48才の作品

 「蕪村が六甲山で読んだ」と言われています。私は「河内」のような平野だと思うのですが、みなさんはどう思いますか。