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板倉聖宣論文による「仮説実験的認識論」の軌跡

⚫︎何をするにも仮説実験

 板倉聖宣(1930-2018)の言葉です。その定式化は、板倉の最大の業績だと思っています。

 どのように生まれ、どのように進展したか。軌跡をたどってみます。


⚫︎1--「予想論」『思想の科学』1955年1月号(板倉25才)

  板倉は、金沢の古書店で一冊を見つけます。田中美智太郎訳(1948)『ヘラクレイトスの言葉』アテネ文庫,1948です。

 そして「予想論」『思想の科学』1955年1月号(『科学と方法』季節社,1969再録)の冒頭にそこからの言葉が引用されています。それは板倉が「仮説実験的認識論」を作り上げる大元になった言葉ではないでしょうか。

「予想しなければ、予想外のものは見い出せないだろう。それはそのままでは捉え難く、見出し難いものなのだから」ヘラクレイトス

 さらに、板倉は自身の言葉で次のように書いています。

ーーいろいろ予想を立ててみて、その予想が正しいか間違っているか、何を調べればよいかつきとめて、それから確かな事実をもとにして調べてみることが必要なのである。(p.13)

 

....それは、私たちが事実を取り扱うのであって、特定のニュースに取り扱われる(左右される)ことがないようになるからである。

 

⚫︎2-- 1953年11月(23才)「コペルニクスから何を学ぶか」,3月(22才)卒業論文にも

 板倉は、すでに「コペルニクスから何を学ぶか」『科学史研究』第27号(1953.11)『科学の形成と論理』1972,季節社に再録、pp.22-23)に、ルフェーブル(フランスの哲学者,1901-1991)の言葉を引用しています。

 つまり、板倉は、ヘラクレイトスの言葉を知る前から、人間的思惟が真理を求めるのには重要であることを認識していたのです。

 

弁証法的態度とは、人間的思惟が諸矛盾を媒介にして真理を求めるということと、諸矛盾が客観的意味をもち、現実のうちに根拠を持っているということとを同時に求めることである。ひとはいかなる矛盾をも虚妄なもの、あるいはみせかけのものとして斥けることをやめ、逆に、諸矛盾とその客観的根拠との探究をなりより先になすべき仕事の中心におく

      ルフェーブル『マルクス主義』竹内訳、クセジュ文庫,1952より

 

その引用は、すでに1953年3月(22才)に、板倉の卒業論文の中に使われています。

「天道説と地動説の歴史的発展の論理構造の分析ー国民のための科学の創造と普及のためにー科学的・実践的科学史の研究学風の建築のために」『科学と方法』別冊2,1953年6月20日発行 (池田佳代編『板倉聖宣初期論文集1952-1954』2004.1.4.150部,収録)

 ちょうどその年(1963年)に大学を卒業し、同名の論文を書いている(「天道説と地動説の歴史的発展の論理構造の分析」『科学と方法』1969 季節社、収録)。

 つまり、

 

⚫︎3--  1964年2月18・21日(34才)「仮説実験授業の方法と理論」

 『時事通信』内外教育版(『科学と仮説』1971野火書房,季節社,収録)からです。

 一般に科学的認識というものはどのように成立するのかというと、それは自然に働きかけようという目的意識をもった実践によってのみ成立するものである。

 

 ここでは「仮説実験授業」という新しい授業方式の提唱において書かれたものです。一般的認識ではなく「科学的認識」としぼって述べられています。

 

⚫︎4-- 1966年3月(36才)「科学的認識の成立過程」『理科教室』1966年6月号

 その文章の冒頭です。

§ 1 認識の成立条件

① すべての認識というものは、実践・実験によってのみ成立する

ここで実践といい、実験というものは、人間が対象に対して目的意識的に働きかける活動をいう。

§2 科学的認識と仮説

① 科学的認識は法則的認識であって、未知の事象に対して予言的な能力をもつような普遍的な認識をめざすものである。

 法則的認識は、仮説を実験的に検証することによってのみ行われる。

 

 ここでは、最初に「すべての認識」と言い、続いて「科学的認識」と言っています。仮説実験授業が提唱された後だからです。

 

⚫︎「何をするにも仮説実験」

 この言葉は、『弁証法かるた』(仮説社 1992)の中に入っている。その後書きには、「(〈弁証法かるた〉が話題になってから)かれこれ15年以上になります」とあります。ということは、1977年くらいには「何をするにも仮説実験」という言葉はあったのでしょう。

 だれがどのようにこの言葉を作ったのかは、今のところよくわかりません。ご存じの方は教えてください。

⚫︎(まとめ)板倉は、いつ仮説実験的認識論を確立したか

 板倉は、大学入学前から弁証法を学んでいます。「〈正-反-合〉といった過程で運動・認識はすすんでいく」という弁証法が、板倉の思想の根底にあります。

 さらに1948年(18才)のときに、三浦つとむ『哲学入門』を読み、翌1949年に大学に入学して「自然弁証法研究会」を主催しています。そんな頃に、「仮説実験的認識論」の礎が作られたのでしょう。それが具現化していき、1955年ころには定式化していきます。

 1964年に「仮説実験授業の提唱」が行われたときには、「仮説実験的認識論」ははっきり文章として公表されました。

 いかがでしょうか。ご意見をお願いします。