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真実ってなあに。(その3)コロナと脚気

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(2/13追加)板倉談(1997.2.8)岸勇司編「まず事実を認め、実験して確かめる」『未来の風』
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●「真実🟠→14項目」「疑わしい🔺→7項目」「間違い❌→3項目」

 根本さんは考えました。「コロナ問題で何が真実で、何がデマなんだろう」

 そこで今まで得た情報の中から「これは真実だ」と思うことを24項目あげて、免疫学に詳しい友人に見てもらいました。

 その結果、10項目に「✖️(真実ではない)」と「△(疑わしい)」がつきました。

 いったいどう考えたらいいのでしょう。やはり、マスクをして、三密を避ける。それしかないのでしょうか。でも、「マスクをする」ということにも疑問を投げかける人がいます。

 武田邦彦氏(中部大学教授)は、他6名と連名で「新型コロナの感染症予防対策についての共同宣言」2020.12.14を発表しています。そこには、次のように書かれています。

 

「私たちは、感染予防対策としてのマスク着用の推奨を停止することを求めます。」

「厚生労働省は、自粛の必要性について、その科学的根拠を示すべきである。 また、新型コロナウイルスの存在を示す根拠となる科学論文を示すべきである。」

 ➡︎WeRise宣言 2021.1.19閲覧

 

 リアルタイムの問題は、なかなか冷静に判断ができません。そこで「明治時代に起こった脚気」と「コロナ問題」とを比較してみることにします。「脚気」は明治天皇も患っています。

 

 [問題1]

 明治天皇は、明治10年に脚気にかかりました。完治するのは、何年かかったでしょう。右の年表を見ながら考えましょう。

 

 ア.  その年のうちに完治した。

 イ.  5年以内に完治した。

 ウ.  もっと時間がかかって完治した。

 

さあどうでしょう。

[脚気年表]

 板倉聖宣『模倣の時代上下』1988より

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明治--3(1865)将軍家茂、脚気衝心で死去

 ・漢方脚気専門医, 遠田澄庵,呼ばれる

明治元年(1868)

 民間における脚気の流行

 

5年 ・民間における脚気の流行

      (特に軍隊)

   ・漢方医, 遠田澄庵「脚気は米の毒」

10年(1878)・明治天皇, 脚気症状

                     皇女和宮,脚気で死去(32才)

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 遠田澄庵(とおだ ちょうあん1819-89)という漢方脚気専門医がいました。「その治療を受けたるもの、治らざるなく」と言われた人で、「脚気は米の毒が原因である」と結論づけていました。遠田は、将軍家茂の元にも、明治天皇の元にも呼ばれています。

 さて、民間ではある程度知られていた「脚気は米が原因」というのは、いつ広く認められるようになったのでしょう。

  明治天皇の脚気は、小康状態になったとはいえ5年たっても治りませんでした。(前の問題の答えは「ウ」)

    ↓

 明治17年になって、海軍と監獄で相次いで、麦飯が採用されて、そこでの脚気がほぼゼロになりました。

 

[問題2]

 明治天皇は、明治10年に脚気にかかりました。明治17年頃には、その脚気は完治していたでしょうか。

 

 ア.  明治17年頃には、完治していた。

 イ.  完治していないが、5年以内に完治する。

 ウ.  もっと時間がかかって完治する。

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー明治17年(1884)

 ・高木兼寛, 海軍でパン食,麦飯採用(17)

 ・堀内利国, 監獄で麦飯採用(17)

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高木兼寛(たかきかねひろ,「けんかん」と呼称されることが多い1849-1920年) WIKIPEDIAより


 明治天皇の脚気は、明治20年に再発しましたが、完治し、その後再発することはありませんでした。おそらく麦飯を食べるようになったのでしょう(答えは「イ」)。

 ところが、脚気は終息したわけではありませんでした。日清・日露戦争では脚気が大問題になりました。

 鴎外(1862-1922)は、本名が林太郎で、陸軍軍医のトップを勤めたことでも有名です。

 森は一貫として「脚気の白米原因説」に反対します。森はドイツで細菌学を学び、「脚気も細菌による」と思っていたからです。当時は「ビタミン」という概念はありません。最新の医学は「細菌学」だったのです。

 日清・日露の戦争にも、陸軍は「白米」を送り続けます。兵隊たちも「陸軍に入れば白米が食べれる」と喜んだこともあります。

 その結果、陸軍は多数の脚気患者を出しました。

 森は日露戦争後(明治42年)の講演でも、自分の非を認めていません。

 

実に此病源は未決の問題である。原因が未決であるから、無論之に処する確たる治療方法があるべき筈がない。

(➡️土原ゆうき「日本人なら麦を喰え!(8)」より、

 (2021.1.25閲覧, 原典は『鴎外全集」38巻, 岩波書店1)

 

 1922(大正11)年、森が死去し、1949(昭和4)年に「ビタミンの研究」でノーベル賞を、エイクマン、ホプキンスが受賞します。

 こうしてみていくと「脚気の白米原因説」が真理となるための道のりはながく、100年近くもかかったのです。

 

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明治20年(1888)

・天皇, 脚気再発→完治, 以後再発せず

                     (麦飯に変えたようだ)

 

(20年 森、シモンズの脚気白米説に反論)

21年 ・森林太郎,ドイツより帰国

27年  ・日清戦争(海軍→麦飯,陸軍→白米)

                           森林太郎の方針

●脚気患者数

 (海軍)            (34人)

 (陸軍)◆◆(4万人)

30年(1898)

 

 

37年・日露戦争(海軍→麦飯,陸軍→白米)

                           森林太郎の方針

●脚気患者数

 (海軍)            (87人)

 

 (陸軍)◆

             (11万人以上)

 

40年(1908)

42年 

森の演説「脚気は原因がわからないから、どうしようもない」

 

45年/大正元年 

 フンク(英)米糠から,ビタミン命名

 

大正11年(1922) 森林太郎死去

 

 

昭和4年(1929)「ビタミンの研究」でノーベル賞を、エイクマン、ホプキンス受賞

 

昭和29年(1954)武田製薬アリナミン発売

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●「仮説実験の論理」,「真理」までの道のりは遠い

 

 ここまで脚気の歴史を見てきて、板倉さんの言葉を思い出しました。

「仮説実験の論理」です。「科学の碑」より

 

科学,それは大いなる                     はじめて

    1空想をともなう仮説 → 2討論・実験 → 3大衆のもの → 4真理

      とともに生まれ、     を経て、      となって     となる 

 ←ーーーーーーーーーーーーーーー 100年 ーーーーーーーーーーーーー→ 

[問題3]

 それでは、コロナ問題でも、いろいろな仮説が真理となるのには時間がかかるのはしょうがないのでしょうか。

 たとえば、「コロナ対策にはマスク着用を推奨すべし」ということを「今は認められない」という人がいます。

 

ア. 「今は認められない」というのは、しようがないことだ。

イ. 「今は認められない」というのは、間違っている。

 

あなたはどう思いますか。


 

 板倉聖宣さんは「現象論と実体論と本質論」(1997)の中で次のように書いています(20:21ぺ)。

 

現象論的な法則」というのは「単なる事実」とは違います。現象論的な法則というのは「何回繰り返しやってもいつも同じようになる、法則的な事実」をいうのです。森鴎外は、そういう現象論的な法則の大切さを知らなかったのです

 

 脚気のように、そういう原因が皆目見当がつかないことは、現象論から着実に攻めていくよりほかないのです。新発見というのは応用問題を解くことではありません。そういう場合には、「なぜか」を問うても駄目で、事実を事実として認めることから出発するよりほかないのです。

 

 私は「今は認められない」というのは間違っていると思います。私はマスクをしていたおかげでインフルエンザにかからなかった経験が何回もあるのです。それも「現象論的法則の1つだ」と思っています。

 

板倉聖宣「現象論と実体論と本質論」『たのしい授業』1997年5月号(仮説社)より

「板倉聖宣アーカイブ33」『たのしい授業』2020年8月号(7ページ分省略)にも。

 「武谷三段理論」武谷三男が提唱した。科学法則の段階論。


[問題4]

 あなたが明治時代に生きていたとしたら、どの段階で「脚気の原因は白米だ」と気づいたと思いますか。

 ア. 明治10年代以前 (遠田澄庵など、民間療法を信じる)

 イ.   明治20年代(海軍や監獄で脚気撲滅)

 ウ.   明治30年代(日清、日露戦争)

 エ.  それ以降

 

 私の母(1926年生まれ、現在94才)は、戦争中に脚気にかかりました。17才のときです。勤労動員の上司が、当時めずらしかった「牛乳」を持ってきてくれて、「いやいや飲んだ」そうです。持ってきたのは「麦飯」ではなかったのです。

 

 私が当時生きていたら、どうだったのでしょう。いずれにしても、権威者に頼らず、自分の頭で考えて、判断する、そうしたいと思います。できることならですが。

 


●仮説実験授業によってはじめて唯物論が唯物論たりえた

 板倉聖宣さんは、次のように言っています。

 

 いくら偉い人が思ったって、人間が考えたら間違いがあります。実験しなければいけません。しかし、有限の実験ではいつまでたっても決まらないものもあります。「今のところ正しい」としか言えないこともあります。(今のところみんなが正しいと思っているものを原理とよびましょう)ということなんです。だから、「これは原理だから絶対に間違いない」なんてことはありません。これは重要なことです。

仮説実験授業によってはじめて唯物論が唯物論たりえたというふうにぼくは考えているのです。

 

[問題5]

 この「仮説実験授業によってはじめて唯物論が唯物論たりえた」というのは、どういうことでしょう。

ア.  よくわからない

イ.  (    )だと思う

 

←板倉聖宣「私の矛盾論」『哲学的とはどういくことかー発想法と真理認識の過程ー』(つばさ書房2004)72ぺ より。

 

 

 

 

「何をするのも仮説実験」


 私は、この言葉がずっと分からず、頭にこびりついています。今の考えは以下の通りです。

 コロナパンデミック下で思うのは、「偉い人に頼っていないで、自分で仮説実験を繰り返し、[真理]と言えるものを見つけていこう。それしかない」です。

 みなさんは、どう思いますか。


最後に、私の意見です。

 武田邦彦さん(中部大学教授)たちの「新型コロナの感染症予防対策についての共同宣言」2020.12.14は、間違いである。というのは武田さんたちには「仮説実験の論理」がないからである。つまり、板倉さんが「科学の碑」に掲げた文章でいうと、「2討論、実験」は時間がかかる。たしかに「4真理」となるには学術論文が必要だ。かといって、それが出るまで「マスク議論は棚上げにする」というのはおかしい。「現象論的法則」を無視している。

 

 [問題6]

 私(井藤)はがんこでしょうか。反対派(この場合武田氏らの意見)も聞くべきでしょうか。

ア.  反対派の意見も聞くべき

イ.  聞かなくてもいい

ウ.   その他

 


●「断固として天道説はまちがっている」

 もう一つ、最後に板倉聖宣さんのことばです。

 

 パラダイム論によると、たとえば「天動説と地動説は同じだ」「東洋医学も西洋医学も正しい」というふうに「両方とも正しい」というんです。これは大変平和共存の理論です。つまり「枠組みの違うふたつの理論が両方とも正しい」というのがパラダイム論です。

.......しかし、断固として天道説の方がまちがっていて、地動説の方が正しい

 では科学の進歩はどうなっていたのか。どうしたら天道説がまちがっていて、地動説が正しいと言えたのか。そういう決め手はどうやってつけたのかを研究したのが、私の論文です。

 

 最後の問題について私の意見は[ウ]です。いくつかの意見を聞いて、その後は自分で判断する。それしかないと思っています。

板倉聖宣「パラダイム論を批判する」『月刊 板倉式発想法講座97/98』(ザウルス出版1998)228ぺより。「パラダイム論」というのはクーンによって提唱されたもの。

 

 

 

 

 

 

板倉聖宣(1953)「天道説と地動説の歴史的発展の論理構造の分析」『科学と方法』季節社1969