⚫︎1 奇跡的に残っていたその本
今からおよそ600年前、ある男が修道院の図書館の棚からひじょうに古い写本を手にとった。男はこの発見にたいそう興奮し、すぐに複製を作るように命じた。時に試練を乗り越えて奇跡的に残っていたその本は、古代ローマの哲学者ルクレティウスが書いた哲学叙事詩『物の本質について』であり、その1冊がその後の歴史の流れを変えることになる。 河野純治「訳者あとがき」より
(スティーヴン・グリーンブラット著、河野純治訳『1417年、その1冊がすべてを変えた』柏書房2012)
『バラの名前』という映画がある。「主人公がある修道院を訪れ、幻の本を見つける」というストーリーだ。
ルネサンスが始まろうとしている時期に、ポッジョというイタリア人のブックハンターが、中部ドイツの修道院を訪れる。ブックハンターというのは、今でいえば「古本屋巡りをして、お宝を探している人」のことである。ポッジュの発見した本は、存在は知られていたものの実物は失われていた。だれも見たことのない幻の本だった。
その本とは、ルクレティウス『宇宙をつくるものアトム(事物の本性について)』のことである。
●2 ポッジョとはどういう人物か
●3 ルクレティウスの本は、どうして残ったか
ルクレティウス(BC99頃ーBC55)は、古代ローマの詩人である。エピクロスの哲学(宇宙論)を、ラテン語に翻訳して詩の形で本にした。『宇宙をつくるものアトム(事物の本性について)』である。文章が美しく、歌うように書かれている。修道院ではラテン語の学習用に使われていたので、1400年代まで残った。
現在、写本が50冊以上残っている。その一冊はマキャヴェリーが持っていたもので、多くの書き込みがされている。
右の年表のように、ルクレティウスの本は、発見以降、多くの哲学者、科学者、文学者に、影響を与えている。
ボッデッチェッリ『春』1482 頃、ルクレティウス5巻の文章がモチーフ「春が来る。翼を持った先ぶれ役に導かれてヴィーナスがやってくる」
⚫︎BC340-270 エピクロス
(古代ギリシア)
⚫︎BC99-BC55 ルクレティウス
(古代ローマ)
⚫︎1417ルクレティウス発見
⚫︎1482頃 ボッティチェリ『春』
(ルクレティウスの描写に由来する)
⚫︎1509 ラファエロ絵画
『アテネの学堂』にエピクロス
⚫︎1516学校でルクレティウス禁止
⚫︎1516 トマスモア『ユートピア』言及
⚫︎ エラスムス『エピクロス主義者』
⚫︎1532マキャヴェッリ『君主論』
(ルクレティウス愛読)
⚫︎1543公刊,コペルニクス『天体の回転について』写本は1514頃から
⚫︎1580モンテーニュ「エッセイ」
(ルクレティウスの引用)
⚫︎1595頃、シェークスピア「原子」
⚫︎1600ブルーノ処刑
⚫︎1610ガリレオ『星界の報告』
⚫︎1632ガリレオ『天文対話』
1632「原子論」禁止
⚫︎1651ホッブス『リバイアサン』
⚫︎1675 ルクレティウス英語訳書
⚫︎1687ニュートン『プリンキピア』
⚫︎4 「エピクロス は人間を迷信から解放する。」
ルクレチウスの本は、最初にこう書かれている。
「人間の生活が重苦しい迷信によって押しひしがれている」
「ひとりのギリシア人(エピクロス)が、はじめてこれに向かって敢然と立ち向かったのである」
「これによって宗教的恐怖が足の下にふみしかれ、勝利は私たちを天にまで高めた」
つまり、天変地異も病気も、神様が起こしているのではない、信心不足のせいではない、と言うのである。
では、どうして天変地異や病気が起こるのか。ルクレチウス=エピクロスは、その謎を解くヒントを与える。アトム=原子である。
ルクレチウスの本が出てから、謎解きが始まる。コペルニクスは「〈天体と地球とは同種のものである〉という考えにたって、天体運動を研究する」(*1)。ガリレオは「月にも地球にも同じように山や谷があることを確認して、天体の力学と地上の力学とを結びつける」(*2)。
「毎日、太陽が東から上り、西に沈む」のは、神様のおかげではなく、力学が説明できることを示すのである。
ニュートンは、さらにそれを運動方程式(F=ma)という本質論に引き上げる。
(*1,2次の著書からの引用、 板倉聖宣(1969)「直接的経験法則と科学的認識」『仮説実験授業の研究論と組織論』(仮説社1988), 初出誌は『科学教育研究』No.4(1971,4国土社)
⚫︎太陽が東から上り、西に沈む →現象論
⚫︎天体の力学と地上の力学とは同じ(ガリレオ) →実体論
⚫︎運動方程式、万有引力の法則(ニュートン) →本質論
⚫︎5 ルクレチウスの本は、すべてを変えた
「物理学」だけでなく、その後「政治学」「化学」「生物学」と、原子論に基づいて科学が作り上げられていく。「1417年、その一冊がすべてを変えた」とは、そういうことなのだ。
ただ、そういう科学研究はもう終わったわけではない。人間1人1人の心の中には、「迷信」や「非科学的認識」がはびこっている。
ルクレチウス=エピクロスが始めた迷信との戦いは、私たちも踏襲していかなければならない。
2020.12.27初版、2021.2.16 2版「●4●5を追加」、
⚫︎6 応用問題「仮説実験授業研究会」は新興宗教か?
ある職員室での会話です。
「仮説実験授業ってすごいよ。子どもが変わるんだ」
「それって、まるで新興宗教みたい」
そう言われたら、あなたはどう答えますか。「仮説実験授業で子どもが変わる」と「新興宗教で空中浮遊できる」は、どう違うのでしょう。
「本質論的法則」がいちばん大切というわけではない。
実験もしないでその理由を「超能力があるから」などという説明を信じてしまうと「新興宗教」になってしまいます。
真っ先に「なぜ」と問うことが大事というのは、〈本質論的法則〉→〈実体論的法則〉
→〈現象論的法則〉の順序で考えることになります。
まずは「たのしい授業ができる」という事実自体を認めることなのです。そうして事実を認めた上で、実験をして、その事実を確かめることなのです。
日本の科学研究には、「現象論的法則」を研究する伝統が弱いのです。
「なぜ」と問うのではなく、「どうなる」を問う。そういう仮説実験を繰り返すことが、科学を創るということではないか。