2つの文章のうち、どちらを支持しますか
教育書から2つの文章を抜き出します。どちらも「子どもを大切にする」という考えをもとに書かれたものです。あなたなら、その2つのどちらを支持しますか。筆者はだれでしょう。
A 「あくまでも子どもを知ることがかぎ」
教師は子ども一人一人を深く知れば、できないことをさせて自己満足するような誤りをおかさないと同時に、安易なことで子どもを解放させてしまうこともありません。徹底して個々に迫ります。
指導のねらいも教材も、一人一人の子を通して探求してこそ、深まりも鋭いものになります。子どもたちからは目を離して、目標設定だ教材設定だとさわいでいる教師の授業は、子どもの頭上はるか天井の際を右往左往しているだけです。地面にしっかり足をすえてみれば、一人一人の子はそれぞれ違った人間です。内容の一律規定などもってのほかです。ほんとうは一人一人のカリキュラムが異なるのが当然なのです。だからあくまでも子どもを知ることがかぎだと思います。
B 「どの教師がやってもうまくいく一般的な教案作成運動が必要だ」
これまで教案というものは一人一人の教師の教師の手によって「個性的なものが作られなければならない」と考えられてきました。しかし、これまで( * )授業が効果的に行われなかったのは、その教案がその教師やクラスの個性にあっていなかったからではなくて、それが、科学的認識が成立するために、必要な順序をとっていないからだ」ということに注意する必要があります。個々の教師に教案を作らせるよりも前に、どの教師がどのクラスでやっても効果的な授業が実現しうるようなそういう一般的な教案作成運動が実現されなければならないのです。
日本の教師は、研究授業をやる(やらされる)ときには、Aの考えに従って「指導案」を作っています。しかし、ふだん授業をしているときは、教科書をそのままやったり、他の教師が作ったプリントを使ってたりしています。
Aは、上田薫「子どもが好きになれる楽しい社会科に」社会科の初志をつらぬく会編『社会科に魅力と迫力を』(明治図書1983)
Bは、板倉聖宣『未来の科学教育』(国土社1966)
上田薫(1920-2019)
板倉聖宣(1930-2018)
B( * )→原文で入っていた「理科の」を省略した。この文章は「教育全体に及ぶもの」と考えたからである)